文春やBBCの報道のはるか昔から、ジャニー氏の性加害問題を世に問い、ジャニーズ事務所と闘ってきた男たちがいた。元フォーリーブスの北公次がジャニー喜多川氏の素顔を赤裸々に告発した『光GENJIへ』を手がけた作家の本橋信宏。その後、元Jr.の平本淳也らを起用して、ジャニーズの暴露本を次々に出版することになる鹿砦社の松岡利康。だが、マスコミは彼らの闘いを長らく黙殺し、ジャニーズとの蜜月関係を深めていく――。しかし2023年、山は動き、ジャニーズ帝国は崩壊した。この男たちは、その状況をどう見ていたのか?
――1988年に本橋さんが手掛けた『光GENJIへ』がデータハウスより出版され、35万部のベストセラーになりました。その後、同社による暴露本シリーズが始まり、鹿砦社からも数々の暴露本が刊行されることに。松岡さんは『光GENJIへ』を最初にご覧になったとき、どんな印象をもたれましたか?
松岡利康(以下、松岡) 驚くばかりでした。著者の北公次はフォーリーブスとしてあれほど活躍していた頃に、ジャニーさんに肉体関係を迫られるなど、こんなに苦労していたのかって……。しかしそれにしても、『光GENJIへ』は文章がうまいね。ぐいぐい引き込まれちゃう。
本橋信宏(以下、本橋) いやいや(笑)。ちなみに私が書いたのは、この最初の一冊だけなんです。自叙伝を出すという北公次の夢はこれで果たせたので。その後の『光GENJIへ』シリーズは別の人間が書いてるから、文体とか違うんですよ。
――ジャニー喜多川氏が少年愛者であることは、『光GENJIへ』以前は世の中にあまり知られていなかったのでしょうか?
松岡 私も具体的に知ったのは『光GENJIへ』が最初でしたし、一般的にもそうだったのではないでしょうか。
本橋 業界内で知る人ぞ知る、という感じだったと思います。
――そもそもどのようにして『光GENJIへ』は出版されたんでしょうか?
本橋 もともとは、この本を出すきっかけにもなり、人脈をつないでくれたりした村西とおる監督の存在があります。村西監督が沖縄ロケで梶原恭子という新人を撮ったとき、撮影の合間、彼女が「わたし、トシちゃんと寝たことがあるんです」と何気なく言った一言から始まったんですね。それをビデオの宣伝材料で使ったため、ジャニーズ事務所側から強硬な抗議が来て、村西監督は吊し上げを喰らいます。その後、怒った村西監督は「ジャニーズ事務所マル秘情報探偵局」という、ジャニーズに関する情報を電話で募るシステムを開設します。そこに北公次とジャニー喜多川との深い関係に関する情報提供があった。それで北公次の暮らす故郷の和歌山県田辺市に行って、無職状態だった彼を説得して東京に呼び戻した。そして、彼自身とジャニー喜多川との関係を告白する本を出そうとして、連日インタビューしました。そこには、「二人三脚でスターを目指そう」という感動的な部分もありましたが、最初は噂を否定していた北公次も4日目から重い口を開き、告白しだしました。
――『光GENJIへ』をきっかけに、ジャニーズの暴露本が世の中に多数放たれました。鹿砦社も、それらを出した代表的な出版社です。
松岡 原吾一の『二丁目のジャニーズ』(95年)や『ジャニーズおっかけマップ』(96年)シリーズ……ネットがまだ発達していない時代でしたからね。大半が初版で2万部でした。それ以上にね、そもそもは書籍『SMAP大研究』(95年)をジャニーズ事務所に潰されたものだから、「売られた喧嘩は買う!」といった面は大きかった(笑)。