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第1特集
『不適切にもほどがある!』と宮藤官九郎のテレビドラマ史

「テレビドラマの正解」にこだわるクドカンと「ヒーロー」の不在

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宮藤官九郎脚本によるドラマ『不適切にもほどがある!』が話題だ──。サブカルチャーを喜劇化するメソッドをふんだんに取り入れ、回を重ねるごとに取り上げるマスメディアも増えている。そんなドラマの骨子のひとつがコンプライアンスのネタ化であることに疑いはないが、規制でがんじがらめのテレビ界を風刺しつつ、本当は“何”を映し出しているのだろうか?

冒頭から腹を抱えて笑ってしまった。煙草モクモクの職員室と慇懃無礼なお詫びテロップで喧嘩を売っていたからだ。

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『不適切にもほどがある!』
TBS系列/金曜22時〜放送中 出演/阿部サダヲ、仲里依紗、磯村勇斗、河合優実、山本耕史、古田新太、吉田羊ほか 脚本/宮藤官九郎 プロデュース/磯山晶、天宮沙恵子 演出/金子文紀、坂上卓哉、古林淳太郎ほか
(写真/二瓶 彩)

振り返れば、2019年のNHK大河ドラマ『いだてん~東京オリムピック噺~』は、受動喫煙撲滅機構や日本禁煙学会から喫煙描写にクレームが付き、「大金をかけて宣伝しているにもかかわらず数パーセントという視聴率もむべなるかなと思う。」と皮肉られた。昭和の物語で誰も煙草を吸わないなどあり得ないが、圧力団体が名を売るには大河は最高のサンドバッグだった。

とはいえ、宮藤官九郎は相当ムカついていたのだろう。近年は単発や配信ドラマの他流試合が目立っていたが、久々の地上波新作はコンプライアンス違反コメディ『不適切にもほどがある!』で、具体的には、昭和と令和の住人が相互にタイムスリップして生じる時代感覚のギャップを描く喜劇だ。第3話の新旧バラエティ番組の収録風景対比など、過去と現在の事象が批評的に同時進行していく二重構成も十八番の作劇だが、近年の宮藤作品は通俗的な価値観の対立から斜め上の展開へ至る傾向が強い。

たとえば、14年の日曜劇場『ごめんね青春!』はカトリック系女子高と仏教系男子校の合併に伴う対立から教育問題を炙り出す学園ドラマ……かと思いきや、錦戸亮が演じた教師の過去の犯罪と恋愛がPTSD的に立ち上がり、「燻っていた青春の終わり」へズレていくのだが、結局、矢沢永吉や松本人志ですら『アリよさらば』『伝説の教師』で演じた『3年B組金八先生』以降の基本フォーマットを意図的に無視していた。その反動なのか、16年の『ゆとりですがなにか』は徹底的に下世話な『ふぞろいの林檎たち』だったが、このあたり、宮藤は過去の名作ドラマやテレビ番組に対する批評的な線引きを厳しく行っている。

21年の『俺の家の話』は、プロレス、能、老人介護の三すくみな価値観の三題噺から、学習障害と多動症を抱えた息子の子育てという要素も絡み、これまたクドカン十八番の幽霊話……生者と死者の関係性で決着したが、『不適切にもほどがある!』では、第1話から示唆されていた阪神・淡路大震災の生と死が第5話で早くも語られ、案の定絶賛されていた。

展開が早いのは伏線中毒の傾向……詰め込みすぎた情報量を一旦整理する意図と、実在の大量死を終盤で語ると不適切どころか不謹慎と言われるから、昭和と令和の断層を埋める挿話の扱いにしたのだろうが、これもまた、かつての抑圧へのアンサーになっている。

東日本大震災を描いた『あまちゃん』では、足立ユイや夏ばっぱの死を匂わせながら、誰も死ななかったからだ。PTSDもアイドルを目指していたユイの挫折に置き換えられていた。

連続テレビ小説が災害や戦争の大量死、それに伴うPTSDを具体的に描くようになったのは、翌14年に関東大震災を描いた『ごちそうさん』からだが、20年の『エール』に至っては戦後編の大半が戦争PTSDの描写で、北村有起哉の好助演がなければ、朝ドラとは思えぬ陰鬱な物語だった。

そうした変化を受け、宮藤も19年の『いだてん』では、関東大震災の大量死と都市の再生を描いている。23年の『季節のない街』(Disney+)の舞台を山本周五郎の原作から「大災害から12年後の仮設住宅」に置き換えたのも、『あまちゃん』ではまだ、隠喩に留めざるを得なかった死の解像度を上げるためだったのだろう。

逆に言えば、生者と死者の関係性を描くために、通俗的なサブカルチャーの引用でくすぐり、戯画化された価値観の対立を語るのが宮藤作品の基本構造であり、「不適切」への風刺もあくまで小道具にすぎない。

……と、好意的に書いたが、実際はもっと試行錯誤している。ドラマの視聴者が求める優先順は逆だからだ。近年の宮藤作品も現在の社会状況に対する「テレビドラマの正解」を求めているのだが、勤勉さで「正解」めいたものを喜劇にできても、野木亜紀子のような「テレビドラマの正解」に特化した脚本家ほど解像度は高くない。

風刺とくすぐりの面白さは変わらないが、『いだてん』も『俺の家の話』もテーマが散らかったまま、情報密度の高さと泣かせの上手さで押し切られたように思えるのは、初期の若者向け作品では許されていた無邪気な暴力性が「テレビドラマの正解」と相反する立場になり、代わりに詰め込んだ成熟と社会的責任を捌くことに汲々としているからで、宮藤本人もインタビューで「年を取ったのだから、昔のようには書けない」と語っていたが、『不適切』は物語の構造をわざとゆるくすることでこの窮屈さに対処している。

毎回、唐突に入るミュージカル演出は「ここからは適当に誤魔化しますよ」という線引きで、『流星の絆』の劇中劇よりもゆるい。主人公の極論な主張はどう考えてもダメだろう、と思いつつ、なんとなく解決してしまうことはこのドラマの肝だが、あからさまに予定調和の嘘だ。でも、真面目なディスカッションドラマでは喜劇にならないし、本当に審議したフジテレビの番組審議会は大惨事になった。「人権意識が強くなりすぎると良い表現ができなくなり、番組がつまらなくなる」はさすがに正直すぎるが。

和製ミュージカル特有のチープさを笑いに繋げる「適当な」演出は、野木のように「正解」だと強弁できる資質を持たない宮藤自身の諦念を嗤われることも想定しているが、元を辿れば『マンハッタンラブストーリー』で及川光博が演じたベッシーの延長線だ。ただ、今回の意図はむしろ、多種多様なLGBTキャラクターが下品で身も蓋もない本音をミュージカル風演出で言い争うアメリカのアニメ作品『ハズビン・ホテルへようこそ』(Amazonプライム)に近いか。物語上の解決とは裏腹に「正解」は出ないことが多様性なのだ、と着地するあたりが。

なにせ、『オレンジ・イズ・ニュー・ブラック』(Netflix)が『監獄のお姫さま』になる宮藤だ。山田太一脚本の『高原へいらっしゃい』を極限まで下世話にした作品と解釈しても不思議はない。何を引用しても日本土着のコントバラエティにしかならないのは宮藤の弱点だが、松尾潔のようなコンプラ出羽守にならない美点でもある。

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