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丸屋九兵衛の「バンギン・ホモ・サピエンス」【24】

【Whitney Houston】悲劇より歌声に注目を

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――人類とは旅する動物である――あの著名人を生み出したファミリーツリーの紆余曲折、ホモ・サピエンスのクレイジージャーニーを追う!

Whitney Houston

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(絵/濱口健)

05年にはブラウン/ヒューストン家に密着する番組『Being Bobby Brown』が放映された。題名に反して事実上の主役たる妻ホイットニーの爆走ぶりが人気となったが、第1期終了後に彼女が降板を宣言したため、そのまま打ち切りに。

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試写会場から出てきた人が言う。「ボビー・ブラウンと知り合ってからの転落ぶりがすごかったですねえ!」

人の数と同じだけのドラマ(この場合は“悲劇”の意味)が世の中に存在するのは確かに事実だろう。しかし、地球上に生を受けた中でワン・オブ・ザ・グレイテスト・シンガーズである彼女が、その悲劇とゴシップと転落とスキャンダルをメインに語られるのもどうかと思うのだ。とにかく、件の映画『ホイットニー・ヒューストン I WANNA DANCE WITH SOMEBODY』に思うところはたくさんある。

Whitney Elizabeth Houstonは、1963年8月9日、ニュージャージー州ニューアーク市の生まれ。父ジョン・ラッセル・ヒューストン・Jr.は陸軍を経てニューアーク市政に関わっていた。母であるシシーことエミリー・ヒューストンはゴスぺル・シンガーで、スウィート・インスピレーションズの一員。母の一族にはディオンヌとディーディーのワーウィック姉妹がいる上に、叔母と見なすほどアレサ・フランクリンと親交が深い、つまり超絶音楽一家だった。ホイットニーが10代半ばにして母の近郊ツアー(ほぼニューヨーク)のバックで歌い、時にはリード・ボーカルも務めて、プロデューサーたちから注目されるようになったのも無理からぬところ。今回の映画で描かれたのとは違い、例の大物がすぐ飛びついてくれたわけではなかったが、それでも80年の時点でルーサー・ヴァンドロスからレコード契約を打診されているのがすごい。もっとも、学業を優先する母によって、これらのオファーは退けられていたのだが。

母とのステージを撮影したカメラマンの推薦で10代向けファッションモデルとして活躍した後、ビル・ラズウェルのグループ〈マテリアル〉のアルバムへの参加などを経た83年2月、アリスタ・レコードのA&Rがシシーとのステージを見てホイットニーの才能を確信。例の大物ことアリスタのクライヴ・デイヴィス社長も直々に出向いて、パフォーマンスに感銘を受ける。

ホイットニーを大器と認めたクライヴは慎重に事を進め、初のアルバム『そよ風の贈りもの』こと『Whitney Houston』は85年にリリース。デビュー曲「You Give Good Love」や「Saving All My Love for You」といったシングルを生んだ同作は結局、彼女にとって最大のヒットアルバムとなった。そして87年にはセカンド『ホイットニーII~すてきなSomebody』こと『Whitney』が大ヒットしたが、ポップすぎる作風が“セルアウト”とも評される。ゆえに、89年のソウル・トレイン・ミュージック・アワードではホイットニーの名にブーイングも起こったが、この授賞式こそが彼女とボビー・ブラウンの出会いの場でもあり、彼女が誕生日パーティにボビーを招いたことで生まれた友情がいつしか恋愛に発展する。

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