――衣服改良運動から「洋服の代用品」として女性用の袴が登場する、と刑部先生は指摘されていますが、これは面白いですね。
刑部 女性用の袴に関しては、単に「和服の改良」であって洋服とは別物だとこれまではいわれてきたのですが、流れを見ていくと、洋服の三重苦を克服するための衣服改良運動が生んだ最高傑作が女性用の袴なんですね。高すぎず、窮屈でなく、活動的な服として考案されたものなんです。日本で洋服がすぐ普及しない中で、「上は着物、下は袴」という機能性重視の組み合わせが登場し、急速に普及していった。そして、明治の「衣服改良運動」が大正8年(1919年)には「服装改善運動」に名前を変え、発展的に洋装の制服が登場してきます。
――セーラー服は大正10年(1921年)に愛知県の金城女学校が採り入れたのが最初だと刑部先生が突き止めていますが、その後普及していったのは、生地さえ用意すれば女学生が簡単に縫製でき、活動するにも便利でおしゃれだったから――これもまた洋服の「高い」「身体に悪い」「不便」という三重苦が克服されたものだったからだと。
刑部 大正時代に服装改善運動が展開されることによって、洋式の制服を採り入れる学校が出てきます。ミッション系の学校は海外と通じていましたが、海外の学校では当時セーラー服が男女問わず子供服で大変流行していたんですね。名古屋の金城女学校のローガン先生の娘さんもセーラー服を着ていて、それを見た女生徒たちの間で「これがいい」ということで作って登校し始める、それが制服化された。といっても、金城女学校一校の影響力でガラリと変わったわけではなく、各地域ごとにさまざまな理由から採り入れられ、ほかの高等女学校でもデザインが美しい、かわいい、あれを着たいということで広がっていきました。