――ビデオジャーナリストと社会学者が紡ぐ、ネットの新境地
[今月のゲスト]
島田雅彦(しまだ・まさひこ)
[小説家・法政大学国際文化学部教授]
1961年、東京都生まれ。大学在学中、『優しいサヨクのための嬉遊曲』(福武書店)で作家デビュー。84年、東京外国語大学外国語学部ロシア語学科卒業。2003年より現職。10年より芥川賞選考委員。泉鏡花文学賞など多数受賞。22年、紫綬褒章を受章。近著に『パンとサーカス』(講談社)など。
7月8日に銃撃による安倍晋三元首相の殺害事件が起きた後、島田雅彦氏による小説『パンとサーカス』に注目が集まった。この作品が、日本の現状、とりわけアメリカの傀儡として堕落を極めている日本の政治の現状に不満を持った若者たちが、要人を標的とする連続テロを起こす物語となっていたからだ。同作品で島田氏が発したかったメッセージとは──。
神保 安倍晋三元首相の暗殺事件の余波が続いています。(鼎談を収録した)8月末の時点では、警備していた警察が大ポカをやってしまったということが明らかになっていて、中村格警察庁長官が辞任を表明(その後、辞職)しています。警備に不備があったことは明らかですが、もうひとつ重要なポイントは、中村さんが安倍官邸によって警察官僚のトップまで引き上げてもらった人だったことと、奈良県警の本部長も安倍官邸の出身者だったことでした。今回のように急遽、安倍さんが奈良に入ることになった時、安倍事務所側が持ってきた計画に警備上の問題があったとしても、安倍さんにまったく頭が上がらない警察がそれにノーと言えたのかどうかなども、検証される必要があると思います。
宮台 それは今後の日本を象徴すると思いませんか。まさに権力が幅を利かせているがゆえに、さまざまな人が本来の知恵や能力を発揮できず、結果的にそれで権力のトップが墓穴を掘る展開になる。
神保 はい、ただ私は今回は、果たして本当に「本来の知恵」というものが日本の官僚機構の中に残っていたのかどうかについても、少し不安を覚えています。
いずれにしても今日はまさにそんな話がしたくてスペシャルなゲストをお呼びしました。小説家の島田雅彦さんです。今年の3月に出版された小説『パンとサーカス』(講談社)が要人暗殺をテーマに書かれていたことで、今、大いに話題になっています。
このタイトルは、古代ローマの風刺作家が2世紀に書いた詩の中で、当時のローマ国民が権力者から「パン(食料)」と「サーカス(娯楽)」を与えられるだけで満足してしまい、政治的に堕落してしまったことを揶揄したところからきているそうですね。
島田 政治の理想を語る時に、古代ローマの共和制、それから古代ギリシアの民主制は常に模範のように語られますが、その時代にもこのような言葉が生まれるように、危機はあった。同時に、こうした政治のあり方は今の日本に限らず、いつの時代にも共通するものだという思いがありました。
宮台 「サーカス」について歴史を補足します。ナポレオン戦争をきっかけに、傭兵よりも国家への忠誠心が高い国民兵のほうが強いということで、戦争マシーンとして出来上がったのが国民国家です。しかし何百万、何千万、億という単位を仲間とみなす、つまり国民が仲間なんだという発想にはもともと無理がある。その中で、19世紀末から活躍した社会学者のエミール・デュルケームは国民国家の源は集合的沸騰にあり、つまり「サーカス」が重要だと言っています。国民がフェスティバル的なものを通じて一体化する最大の経験として、戦争が入る。そういう歴史の中で今があるので、何か異常なことが起こっているというふうに考えないほうがいいというのが僕の考えです。
神保 安倍元首相の山上容疑者による暗殺については、旧統一教会の問題ともきちんと向き合わなければなりませんが、問題はそれだけではありません。山上氏は奈良県ではトップクラスの郡山高校という進学校に通っていて成績もよかったが、統一教会にはまった母親が全財産を寄付してしまったために家計が崩壊し、大学進学を諦めなければならなくなったとされています。
結果的には彼は自衛隊など、彼自身が望んでいなかったような不本意な人生を送ってきた。これはあくまで想像の域を出ませんが、きっと彼は、自分の人生はこんなはずじゃなかったと思っていたのではないでしょうか。そうして積もり積もった不満が、統一教会と安倍元首相に向かってしまったと。
宮台 統一教会問題は今回の事件については必要条件ですが、確かにそれのみが原因だったとはいえない。実際問題が起こったとされる2002年から事件まで20年たっていて、山上はロスジェネ世代のさまざまな被害を被ってきている。それもまた、今回の事件に寄与したでしょう。だから、さまざまな背景に目を配る必要がある。ところが人間はいわゆる帰属処理の動物なので、統一教会のせいでこれが起こったとか、安倍政権のせいでこれが起こったというふうに理解したがる。