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澁川祐子の「味なニッポン戦後史」【6】

終戦後の砂糖不足で救世主に 「人工甘味料」バブルと転落 「甘味」(前編)

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――甘い、辛い、酸っぱい……日本の食生活で日常的に出くわす味がある。でも実は、“伝統”なんかではなく、近い過去に創られたものかもしれない――。味覚から知られざる戦後ニッポンを掘り起こす!

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(写真/Getty Images)

【澁川祐子の「味なニッポン戦後史」】
【1】専業主婦率上昇で浸透した「だし」をめぐる狂騒 「うま味」(前編)
【2】魔法の白い粉「味の素」の失墜と再評価 「うま味」(中編)
【3】無形文化遺産登録で露呈した伝統的な「和食」のほころび 「うま味」(後編)
【4】専売制下で誕生した「自然塩」の影にマクロビあり 「塩味」(前編)
【5】地名を冠した塩商品の爆増と「日本人は塩分を摂りすぎ」問題 「塩味」(後編)

甘いものは、なくても生きていけるが、ないと寂しい。もちろん甘いものがあまり好きじゃないという人もいるだろう。でもそう言い切れるのは、甘いものを含め、食べものが豊富にある現代だからかもしれない。

終戦直後のエピソードを読むと、老若男女を問わず「甘いものに飢えていた」話で溢れかえっている。甘さは、エネルギー源であることを示すシグナルだ。速やかにエネルギー補給でき、しかも「報酬系」という脳の快感にかかわる部分を刺激することがわかっている。飢えた体と心に効く食べものゆえに、人々はこがれるように甘さを求めたのだ。

さかのぼると、甘味が貴重品だったことも、そのありがたみに拍車をかけた。甘味の代表である砂糖が世界に広まる前は、甘いものといえば果物やハチミツ、メープルシロップや麦芽糖など限られたものしかなかった。日本では古代に、ツタの樹液を濃縮した「甘蔓煎(あまずらせん)」という独特の甘味料があったが、再現レポートによれば、糖度が増す冬場に採取したわずかな樹液を絞り、長時間かけて煮詰めた末に、ほんのちょっぴり得られるものだったらしい(山辺規子編『甘みの文化』ドメス出版、2017年)。

現在、砂糖はサトウキビかテンサイ(ビート)から主に作られる。寒さに強いビートの製糖技術が18世紀に確立するまでは、熱帯もしくは亜熱帯で育つサトウキビの独壇場だった。大航海時代にヨーロッパがアメリカ大陸を「発見」し、サトウキビの栽培に適した広大な土地と労働力となる奴隷を得て、大規模なプランテーションを展開した。そして世界の構図を変えたいきさつは、1985年にシドニー・W・ミンツが著した『甘さと権力 砂糖が語る近代史』(川北稔・和田光弘訳、ちくま学芸文庫、2021年)に詳しい。ひるがえって辺境の日本もまた、ヨーロッパの歴史に倣い、植民地を通じて砂糖を得た国の一つだった。

そのしっぺ返しは、戦後に一気にやってくる。敗戦を機に失った台湾、沖縄、南洋諸島、樺太といった土地は、いずれも砂糖の供給地だった。なかでも日清戦争以降、日本の植民地となり、製糖業の中心を担ってきた台湾を手放したことは大きな痛手となった。終戦直後、日本の砂糖の生産量はほぼゼロに陥る。そこで救世主となったのが、人工甘味料だった。

宝石扱いだったズルチン、サッカリン

人工甘味料といっても、世代によって思い出すものは違うだろう。私がよく覚えているのは「パルスイート」だ。

パルスイートは、1984年(昭和59)に味の素から発売された卓上用甘味料で、主成分はアミノ酸からなる「アステルパーム」である。砂糖と同じ甘さでカロリーは200分の1という触れ込みで人気を博し、一時は喫茶店でシュガーポットと一緒に、パルスイートの小袋が並んでいたのを覚えている。ダイエット意識が芽生える一方で、当時はまだコーヒーや紅茶には砂糖を入れて甘くして飲むのが当たり前だったんだろう、と今にして思う。

時間を巻き戻すと、終戦直後の食糧難を生き抜いた人にとって、記憶に残る人工甘味料といえば、サッカリンとズルチンではないだろうか。どちらも戦前から糖尿病治療などの医薬用として認可され、サッカリンに関しては後に砂糖不足を補うためにたくあん漬けに限って食用としても使用が認められた。しかし規制は表向きで、戦中からこの二つの甘味料はヤミで売り買いされ、サイダーなどの清涼飲料水にも使われていた。

終戦直後は、甘味への渇望がこれら甘味料の値段をさらに押し上げ、粗悪品も氾濫した。『味百年 食品産業の歩み』(日本食糧新聞社、67年)では、戦後の混乱期の様相を次のように記している。

「原爆糖とかいって有害な甘味を持ったニトロ化合物が横行したのと溶性サッカリンとズルチンが家庭用の甘味から食品工業会の甘味まで当時の甘味不足の時代には大変な貴重物質となって、宝石のごとくに取引きされ食品加工業者の中には金庫にしまった思い出のある人も多いことだろう」

「原爆糖」とは、ただならぬネーミングだが、火薬の原料になるニトログリセリンのことだ。中毒性があるにもかかわらず、甘味があるという理由で、人々はそれすらも口にしたのだ。

そんな状況に政府はとうとう根負けし、1946年(昭和21)にサッカリンとズルチンの食品利用を相次いで許可した。それでもヤミ取り引きは止まず、最盛期の47、48年頃には「一キログラム八千円もして、上野のヤミ市などで飛ぶような売行きをみせた」(1957年11月15日付「読売新聞」)という。サッカリンは砂糖の約500倍、ズルチンは約250倍甘いとされているから、1キロでも相当な量にはなる。しかし48年当時、東京での汁粉の平均価格は一杯10円(週刊朝日編『値段史年表 明治大正昭和』、88年)。それなら金庫にしまいたくなる気持ちもわかる。

おまけに悲しいかな、やっとのことでありついたその甘さに、エネルギーはほとんどない。それでもなお、人は甘味に強く執着せずにはいられないという事実を、戦後の混乱はまざまざと見せつけている。

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