普段は「リベラルな思想の持ち主」というイメージなのに、ジェンダーの話になると時代錯誤で女性差別的な言説を披露してしまう……。そんな「ジェンダーの話になるとバグるリベラルおじさん」の存在が最近話題となっている。自由を守り、男女平等も是とするはずの男性が、この話題でバグる背景には思想史的な理由があった──。
フェミニズム隆盛の象徴的な動きの一つの「#MeToo」のムーブメント。その報道拡大は「ポピュラー・ミソジニー」を生み出す一因にもなった。(写真/Tassli via gettyimages)
「ジェンダー・ギャップ指数2021」(世界経済フォーラム発表)の順位が156カ国中120位で、“男女格差後進国”とも言われる日本。だがフェミニズムの思想が着実な広がりを見せる中で、格差是正の必要性を感じる男性は増えているだろう。
一方で、そうしたジェンダー運動に反発する「バックラッシュ」の動きも深刻化。ツイッターで情報発信するフェミニストを「ツイフェミ」や「フェミ」と呼び、その揶揄や中傷で人気を集めるアカウントやまとめサイトも出てきている。
そんな中で不思議な現象として捉えられているのが、「ジェンダーの話になるとバグるリベラルおじさん」の存在だ。わかりやすく言うと、一般にはリベラルな思想の持ち主として知られているのに、ことジェンダーの話題となると女性差別的な言説を披露し、バックラッシュ側の勢力に加わってしまう中高年男性のことだ。政治学者で上智大学国際教養学部教授の中野晃一氏も、リベラリズムを論じた自身のYouTubeでこの問題を取り上げている。
一般的なイメージではリベラリズム=自由や平等を重んじる思想かもしれない。しかし実はリベラリズムと男女格差の問題には深い関わりがあり、リベラリズムはその格差温存にも深く関わってきた思想だった。本稿では、その思想史を振り返りながら、この問題を大局的な観点から探っていく。
では、リベラリズムの思想でジェンダー問題はどう扱われてきたのか。先述の中野氏に話を伺い、ザックリ振り返っていく。まずキーワードになるのは「プロパティ」という言葉だ。
「西洋では近代的な政治・社会制度そのものを生み出す思想としてリベラリズム(自由主義)が登場しました。そこで重要な概念がプロパティです。財産と訳されることが多い言葉ですが、もともとは個々人の特性・性質を指す言葉で、近代化の過程では『心身の自由』『所有権』を指す重要な概念となりました。そして絶対王政という強者の支配に対し、貴族らが自らの自由や人権、所有権の正統性を主張したことから、立憲主義や議会制民主主義が誕生したわけです」(中野氏)
こうした制度下で資本主義も発展していくが、ポイントは「当初は財産を持つ新興ブルジョワ階級の男性しか人権や所有権が認められなかった」ということだ。
「女性や有色人種、労働者などの人権は後回しにされたわけです。そもそも当初、西洋のsociety(社会)の概念には資産を持つ人しか含まれず、その限られた人々のみが参加する社会でも、女性は父親の所有物であり、将来的には結婚相手に所有権が移管していく存在でした」(中野氏)
つまり、古典的なリベラリズムは家父長制をベースに置いた思想なわけだ。そして西洋の哲学史の基調となる「心身二元論」や「理性の重視」も男女格差に深く関わっている。
「人間を神の領域に近づけてくれる理性に対し、物理的存在の身体は下等なものとして扱われてきました。そのため肉体労働をする人や、妊娠・出産と子育てをする女性は、『身体に囚われているので理性の働きが弱く、公共の善を考えることはできず、市民権もない』という扱いをされた。『ヒステリー』という言葉の語源が古典ギリシア語の『子宮』であることからも、古くから身体への蔑みがあったことがわかります」(中野氏)
ただ、その後はリベラリズムの思想も発展。欧米においては19世紀~20世紀前半にかけて第1波フェミニズムの波が拡大し、女性参政権が広まっていったのは周知の通りだ。
「法の前の平等や、形式的な平等は広く打ち立てられていきました。この時点ではリベラリズムとフェミニズムは親和性が高い状態にあったと言えます」(中野氏)
一方で第二次大戦後になると、「ジェンダーとしての女性らしさ」や「女性であること」が歴史的・社会的な構築物であるという認識、すなわちジェンダーの概念も徐々に定着。第2波フェミニズムの運動が広がっていった。
「『公的領域での権利の平等が達成された一方で、家でご飯を作り、子育てをして、病気の家族の面倒を見るのは女性であること』『男性と比べて女性は進学や就職、出世が依然として不利であること』などに異議の声が上がるようになったわけです。その背景には、リベラリズムが公的領域と私的領域を分割したうえで、主に公的領域に関心を向け、私的領域をブラックボックスにしてきた歴史がありました。要するに家庭でのケアを女性に押し付けたうえで、その存在には触れずに、公的領域の自由や平等を論じてきたわけです」(中野氏)