――ダンスフロアからの新たな刺客。DARUMAとJOMMYの画期的音楽探究。
(写真/岩澤高雄[The VOICE])
「職業・絵描き」であり、今やDJ/クリエイター/イベンター/デザイナー/マンガ家など、あらゆる肩書をフルスロットルで炸裂させているアーティスト、それがJUN INAGAWA。今年23歳の時代の寵児は、高校時代からあたため続けてきたマンガ『魔法少女マジカルデストロイヤーズ』のアニメ化にまでたどり着いた。そんな彼の破天荒でユニークすぎる人生を、ダルジョミが解体!
DJ DARUMA(以下、D) 今月はJUN INAGAWAくん(以下、ジュンくん)をゲストに、彼のアトリエにお邪魔しているんですが……そもそも僕が先日ここにお邪魔しまして、現在に至るまでのヒストリーを聞いたら、めちゃくちゃ面白くて、かつドラマチックすぎたので、連載でも紹介というか、記録を残しておきたいと思いまして。早速、ジュンくんの子ども時代から話を聞きたいんですが、お父さんの教育理念についてから教えてもらってもいいですか?
JUN INAGAWA(以下、I) 父親が日産のインテリアデザイナーで、「キューブ」の2代目か3代目のデザインを担当した人なんですね。日頃から絵を描いている父だったので、息子にも絵を描かせたい気持ちが強く、僕も小さい頃から隣で絵を真似て描いていたんです。小学校になって「コロコロコミック」(小学館)と出会い、『イナズマイレブン』とかマンガやアニメが大好きになって。その頃の父親は「マンガは悪いものじゃない。どんどん読め」って言ってくれていて、読んでは(絵を)真似てを繰り返していたら、「ジュンが将来マンガ家になりたいのなら、全力でサポートするから」とも言ってくれてたんです。
D そんなときに海外へ行く話が出るんだよね。
I 僕が小学校6年のとき、父のサンディエゴ転勤が決まったんです。僕としては小学校を卒業して、「みんなと中学校も一緒やね!」って盛り上がってたので、その話を神妙な顔つきで言われたときは、「ふーん、引っ越すんだ……え、アメリカ!?」みたいな、ガキの僕には衝撃すぎました。でも、「絶対ヤだ!」でもなかったんですよね。なんとなくですけど「アメリカいいじゃん」みたいな。小学校を卒業して、いざアメリカに、と思ったんですけど、海外の入学式は9月だから、「3カ月は日本の中学校に行けるよ」と言われ、通うことになったんです。「どうせ俺はここにずっといられない……」という劣等感を持ちながら通学し、友達は「あの子のおっぱい、中学2年くらいで開花するぞ! 絶対デカくなる!」とか盛り上がってるんですけど、俺はその子のおっぱいの成長を見届けることもできないんだな……って虚無感に襲われて。俺も一緒に下校時間に友達と肩組みながら「あいつはおっぱいデカくなんぞ〜!」とかやりたかったけど、ひとり虚しくiPodでBUMP OF CHICKENを聴いてました。で、3カ月が経って海外へ移住しました。
D その間も絵は描き続けていた?
I ずっと描いてました。ただ、日本でマンガ家になりたかったので、海外に移住してまで「絵を描く意味とは?」まで考えるようになっちゃったんですよ。でも父親は「現地にはアートセンターもあるし、アートデザインの学校でもトップクラスの大学がある。絶対に視野が広がるし、言語も増える」と。本当は両親の実家に預けられることもできたんですけど、そこには父親の意図もあったみたいで。とりあえず3カ月間通った日本の中学校ではお別れ会も開いてもらえたんですね。でも、たった3カ月だし、見送ってくれる生徒も全然感極まってないんですよ。「いってらっしゃい」と簡素に会も終了して、アメリカに行くんですが、初日からキツかった。
JOMMY(以下、J) まったく英語は話せなかったんだよね?
I 父親は普通のパブリックスクールに入学させたんですよ、僕を。なので、入学式初日から何を話しているかまったく理解できない。とりあえず言いますよね、「I don't speak English」って。でも、日本人がめずらしかったのか、それなりに人気者になって、そうなったらサヴァイブしていくしかなくって、校庭で行われてるサッカーに「ジャパニーズ・サッカー、ケイスケ・ホンダ!」とか言いながら無理やり混ざったりしました。もともとフットサルをやっていたんで、技術が伴えば言葉はいらない。だからもう、「サッカーでカマすしかない!」精神でサヴァイブしていたら、「ちょこまかすばしっこい日本人」ってメキシカンの先輩が仲良くしてくれるようになって。そこから英語を教えてもらったり、昼メシも一緒に食うようになって、3カ月くらいでリスニングはできるレベルにまで到達し、英語を話せるようになったのは、1年くらいだったと思います。