――その卒塾生の多さから、かつては“第4の勢力”とまで言われた松下政経塾出身者による国会議員。言うまでもなく日本を代表する実業家・松下幸之助が設立した私塾であるが、最近は永田町でも気にしない人が増えているという……。
神奈川県茅ヶ崎市にある松下政経塾。
松野博一官房長官、高市早苗自民党政調会長の共通点は――。
この問いをすぐに当てられた読者は、なかなかの政治通である。
答えは、パナソニック創業者・松下幸之助が設立した政治塾「松下政経塾」(以下、政経塾)の卒業生。松野は9期生、高市は5期生だ。
政経塾が最も注目されたのは、1期生の野田佳彦が総理大臣に就任した2011年のこと。そして玄葉光一郎外相(政経塾8期生、以下同)、長浜博行官房副長官(2期)、前原誠司民主党政調会長(8期)、樽床伸二党幹事長代行(3期)、さらに国会議員ではないが、総理秘書官に野田の秘書・河合淳一(2期)が起用され、「政経塾政権」と称された。当時、塾出身の国会議員は38人に及び、公明党の40人に次ぐ「第4勢力」と言われたものだ。
ところが今や、トンと話題に上らない。
「高市さんが政経塾出身というのは有名ですが、松野さんがそうだとは知らなかった。誰と誰が政経塾の先輩・後輩といった見方をすることもなくなりましたね」と、政治部記者も頭にない様子。なぜ「政経塾ブランド」はオワコンとなったのだろうか?
ここで簡単に政経塾について紹介しよう。1979(昭和54)年、幸之助が84歳の時に私財70億円を投じ、神奈川県茅ヶ崎市に設立した政治塾。田中角栄と福田赳夫による熾烈な「角福戦争」が尾を引き、国民も政争にウンザリしていた頃で、「我が国を導く真のリーダーを育成しなければならない」との想いからだった。
全寮制で研修期間は4年。座学のほか、政治、経済の現場での実践研修があり、研修費として年間300~500万円も支給される。もちろん入塾は狭き門で、1期あたり数人から十数人。現在は、39~42期生が在塾中だ。
その卒塾生の中で「神」と崇められているのが、国会議員第1号となった1期生の逢沢一郎だ。
祖父、父も衆議院議員というサラブレッドで、1986年の衆院選挙で自民党から初当選。92年には通産政務次官に就き、当然、塾生初の政府入りだった。
そして飛躍を遂げたのが93年の政権交代選挙である。日本新党代表の細川護熙が政経塾評議員だったこともあり、同党から7人の大量当選。逢沢も含めて合計で15人が議席を得た。この時、初当選を果たした卒塾生は、前出の野田、玄葉、長浜、前原、樽床、高市の他、山田宏(2期、元杉並区長、現自民党参院議員)、中田宏(10期、元横浜市長)ら、煌びやかな面々だ。
こうして「政経塾ブランド」が確立され、茅ヶ崎にある政経塾の門を叩く政治家志望者が激増していくのだった。
ただし、彼らの雄姿を幸之助が見ることはなかった。89年に亡くなったためだ。寮生活の濃密な時間を過ごすため、先輩後輩の序列は後々までついて回るが、中でも、「幸之助と会ったことがあるか」、さらに「幸之助にかわいがられたか」でランク付けされるという。卒塾生が解説する。
「創設当初から3期くらいまでは、幸之助さんは最終面接試験を行い、塾生と風呂場で背中を流し合うほど、じっくり付き合ったそうです。特に樽床さんはかわいがられ、幸之助さんが病床で、『樽床は元気か?』と言ったとか。まあ、樽床さんの自称ですが(笑)。幸之助さんが直接会話を交わしたのは9期までで、現日本維新の会の市村浩一郎衆議院議員(9期)は、選挙ポスターに『最後の弟子』と記していました。そのため、『2ケタ(期生)以降は、政経塾ではない』と断じるOBもいます」
前出の記者は、こんな光景に驚いたと語る。
「創設初期に入塾した民間人と飲んでいた時のこと。急に『前原を呼ぼう』と言い始めた。当時前原さんは民主党幹部でマスコミに追いかけられる立場でしたが、すっ飛んできた。『先輩の誘いは断れませんよ』と。8期の前原さんからすれば、1~3期は雲の上の存在のようでした」