「毎日電報」1910年9月22日付に掲載された美男子コンテストの募集記事。(国立国会図書館蔵)
1910年(明治43年)9月22日、「毎日電報」が紙上で美男子コンテストの募集記事を掲載した。見出しには「日本の代表的美男子を募集す」とある【トップ画像】。ただし、生身の人間が審査を受けるわけではなく、応募写真の中から「各大家の最も公平なる審査」を通じて「当選賞」が選ばれ、1等には金杯、2等から10等までは銀杯、応募者には「審美賞」として賞品が贈られるというものだ。自薦・他薦、既婚・未婚を問わず広く募集されたこともあり、最終的には1000名以上の応募があったという。募集要項によれば、求められるのは「グニャグニャした、筒転ばし的の色男」ではなく、「明治の真人間」であり、「正しい、強い、品位ある、膨張的大日本を代表するに足るべき堅固な意志と愛情の優味とを映出した『立派な顔』」を持つ、いわば「時代の顔」とでもいうべきものであった。
この募集要項には、「外交家の最初にして又最終の条件は顔面の優秀にある」という外交官の言葉が引用されている。19世紀末から20世紀初頭にかけて欧米諸国で台頭した「黄禍論」(黄色人種脅威論)に頭を痛め、不平等条約改正に努めていた日本において欧米列強と比べても遜色のないような、対外的に通用する「美男子」が必要とされていたのだろう。このことは11月7日付同紙の「西洋婦人の見た日本の美男子」という記事内で、元外相の陸奥宗光が駐米公使の未亡人である「西洋婦人」から「私が見た日本男子の中の一番美しい方」と評されたというエピソードが報じられていることからもうかがい知れる。この翌年には小村寿太郎外相がアメリカとの交渉によって関税自主権の回復に成功しているが、優れた外交手腕を見せた小村は当時の基準では「美男子」ということになるのだろうか。