――サブカルを中心に社会問題までを幅広く分析するライター・稲田豊史が、映画、小説、マンガ、アニメなどフィクションをテキストに、超絶難解な乙女心を分析。
「胸糞が悪い」。コミックエッセイ『妻が口をきいてくれません』(集英社)の感想を一言で言うと、こうなる。単行本の帯キャッチは「離婚よりも、生き地獄」。なお、こちとら離婚経験のある40代男性だ(多くは語るまい)。
本作は、夫視点の章→妻視点の章→事の顛末章の順に、三部構成で展開する。
夫視点では、専業主婦の妻・美咲が突然口をきいてくれなくなって困惑する夫・誠の日々が綴られる。いくら理由を聞いても答えてくれず、コミュニケーションは2人の子どもを通してのみ。どんなに機嫌をとっても無視され、顔を見てもくれない。そのまま5年以上が経過し、限界に達した誠が離婚を切り出すところで、夫視点が終わる。
続く妻視点は、種明かしの章。子どもが生まれて以降の誠の言動が、無神経・無自覚に美咲の尊厳を傷つけていたことが、美咲の鬼気迫る独白によって細かく述懐される。その内容は、巷のツイッター専業主婦アカウントが日々告発している夫の無神経発言、ほぼそのまま。「いったい今日なにしてたの? 一日家にいるんだからいろいろできるでしょ」「ただ段取りが悪いだけだと思うよ」――。そういう夫たちの胸の内は決まって、「俺が働いて養ってるんだから、それより“ずっと簡単な”家のことぐらい、ちゃんとやれよ」だ。
美咲にしてみれば、精いっぱい主婦業を頑張っているのに、誠からは労いどころか批判とダメ出ししかこない。殺意にも近い恨みと失望が蓄積されてゆくが、離婚したところで子どもを育てる経済力はない。だから美咲は、子どもたちが成長して養う必要がなくなる“その日”まで、「無」になって役割をこなそうと決意する。
美咲は独白する。「“その日”のために準備もしている。新しい服も買わずにお金も貯めてる」と。
こうなったら、男が原因に気づいて「これから態度を改めるからごめん」と妻に謝罪したところで無駄だ。女にとっては、目の前でしゃあしゃあと宣言された清々しい決意表明など、「このクソ男が今まで私にどんな酷い仕打ちを自分にしてきたか」の記憶によって、簡単にかき消されてしまう。
女は「私があなたの言動で嫌だった」ことを、どんなに些末なことでも正確に記憶している。何年も、何十年も。そして、ある怒りが沸き起こった瞬間、過去に同種の怒りが生じたエピソードを一瞬で思い出し、当時の感情が無劣化で脳内再生される。夫婦喧嘩において、揉めている案件とはまったく無関係の過去エピソードを妻が突然持ち出して夫が責められるのは、そういうわけだ。
と、この程度は巷の「男女脳」本によく書いてある。問題は、顛末章の結末だ(作者の野原広子が女性であることは、くれぐれも念頭に置くべし)。