――今や当たり前のように受け入れられている日本語ラップの「ラブソング」。しかし、日本語ラップ黎明期から成熟期を迎えるまでは、それを歌おうものならディスの対象にも。本稿ではラブソング氷河期を体験してきた現役のラッパーのコメントを交えながら、マンガ家・服部昇大先生の描き下ろしマンガ込みで、その歴史と変遷をたどる。
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(服部昇大/マンガ)
「当時、ラブソングを歌うことはタブーであった」――そう聞けば、まるで文明から隔たれた奥地に潜む民族でもイメージするかもしれない。しかしながら、これは少し前の日本の出来事。本稿は、日本のラップミュージックにおいて禁忌とされていた“ラブソング”が、いかに一般化してきたのかを、現役で活躍し、かつ過渡期にラブソングを発表したラッパーのコメントを交えながら振り返っていきたい。本誌ではおなじみ、服部昇大先生によるマンガでの解説も、合わせてぜひ。
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(服部昇大/マンガ)
今回取材に協力してくれたGAGLEのHUNGERとKEN THE 390の両氏。
日本にヒップホップ、およびラップの曲がリリースされるようになったのは1980年代半ば頃から。今でこそどんな音楽か容易に想像できるものの、当時はあまりに未知のジャンルだった。もしラップによるラブソングが生まれているならば、この時代だったかもしれないが、筆者が知る限り、陽の目を浴びた曲はない。そして当時の日本のラップシーンは厳格な男社会。パブリック・エネミーをはじめ、ビッグ・ダディ・ケインやランDMC、ビースティ・ボーイズなど、日本人がラップをすることに大きく影響を与えた海外のラッパーたちのスタイルも相まってか、タフな男たちがラップ・ミュージックというジャンルを形成。ゆえに、そこへラブソングという概念は入る隙さえなかったように思える。
そんな日本語ラップ黎明期を、仙台を拠点に活動するヒップホップ・グループ〈GAGLE〉のMC、HUNGER氏はこう振り返る。