――ビデオジャーナリストと社会学者が紡ぐ、ネットの新境地
『薬物依存症』(ちくま新書)
[今月のゲスト]
松本俊彦[国立精神・神経医療研究センター薬物依存研究部部長]
――著名人による違法薬物事件が相次いで世間をにぎわせている。無論、違法薬物は違法である以上、取り締まりは必要だ。だが、薬物依存症の治療に取り組む松本俊彦氏は、薬物依存症は治療が必要な病気だが、日本では社会のスティグマがあまりにも強いため、薬物に手を出した人間はおのずと社会から排除されることになると警鐘を鳴らす――。
神保 今回のテーマは薬物問題です。有名人の逮捕が相次いでいますが、僕がアメリカのオピオイド問題を取材していることもあって、社会のリアクションやメディアの報道も含めて、一度薬物と依存症の問題をきちんと整理しておきたいと思います。
宮台 特にテレビなどで、例えば痴漢や万引きなども含め、「依存症」という概念がさまざまなものに適用でき、非犯罪化して治療の対象にすることが社会にとっては効用が高い、という議論はずいぶんされています。しかし、なぜか薬物関連についてはそれに矛盾するような動きが続いているのが不思議です。
神保 そのあたりも考えたく、国立精神・神経医療研究センター精神保健研究所薬物依存研究部部長の松本俊彦さんをゲストにお招きしました。まず、「依存」という言葉は日常的に使われますが、そもそも「依存症」とはどういうことを指しているのでしょうか?
松本 難しいところですが、自分の中で「大事なものランキング」がありますね。その順番が狂ってしまい、例えば薬物が一番上に来て、本来歩むべき道から外れたり、大事な人を裏切ってしまうなど、価値観の転倒が起きるのが依存症だと、僕は考えています。
神保 依存の対象によっては問題になる場合もありますが、依存自体は悪いことではなく、中立的な言葉ですね。
松本 そうです。例えば、仕事が終わった後にお酒を適度に飲み、リフレッシュしてまた翌日から仕事をがんばっている、という人はたくさんいる。これは、お酒に健康的に依存しているということです。しかし、アルコール依存症になると、飲酒をやめられず仕事に行けなくなったりする。これはうまく依存できていないということで、それが依存症だという言い方をしてもいいかもしれません。
もともと「依存」という言葉は、「アル中」や「アディクト」など侮蔑的な言葉を医学的な概念にしようということで生まれたものです。当初は、「依存物質」を繰り返し使っていると、同じ効果を得るのに必要な量が多くなっていき、急にやめると離脱症状が出るようだ……ということに注目し、「依存」という言葉を引っ張ってきた経緯があります。しかし、身体的依存は、現在の考え方ではそれ自体が病的なことではなく、むしろ中枢神経に作用する物質を投与した生体の正常な反応なんです。例えば、誰でもお酒を飲んでいれば前より強くなるし、コーヒーの眠気覚ましもだんだん効き目が薄くなるでしょう。
むしろ問題なのは、身体的なものより、精神依存だということです。ただ、それがなんらかの行動への依存の場合、耐性や離脱というものがはっきりせず、それを「依存症」とするのは変じゃないか、ということで「嗜癖行動」などと言われています。
宮台 痴漢や万引きが「嗜癖」だという場合に、治療に際して「逆条件付け」をしようとしますね。例えば、満員電車に乗ること自体が痴漢のトリガーになってしまうなら、そこに接触しないようにする。治療にかかわっている方の多くが、そのような条件付けは脳の問題であり、意志の力でなんとかなる問題ではないのだと言う。そこで「精神依存」という言い方がどれくらい正しいのかと。
松本 よく言われる「意志が弱い」というのは成り立たないと思います。精神依存の根拠と現時点で言われているのは、脳のドーパミン作動性の報酬系ですが、そこにダイレクトに効く薬がないので、仕方がなく心理療法で対処している、というのが依存治療の現状です。
神保 例えば大声で歌うと本当にスッキリします。これと薬物による快感は違うものでしょうか?
松本 おそらく違いません。それでは何をもって精神依存という病的な現象として捉えられるかというと、これはもう医学をはみ出していて、社会が「いただけない」と思っているものを渇望してしまうかどうか。そういう意味では、この「依存症」という病気自体が、社会の価値観に左右されてしまう、純粋な医学的な概念とは言えない面があります。