士官学校を見学するタイヤル族ら(1918-1932年頃/著者蔵)
1897年、台湾総督府は台湾原住民を対象とした内地観光事業を始めた。現地有力者に対して士官学校【上画像】や兵営、軍需工場、軍事演習といった軍都の威容を見せることで、自分たちの無力さを思い知らせ、抵抗の目を摘もうというのだ。あるいは皇居や神社仏閣、近代的な都市、娯楽施設などの見学を通して日本の優越性を知らしめ、感化し、威嚇し、懐柔するというのが、台湾の植民地官僚の企図したところであった。こうした方法は、欧米諸国が植民地や居住地の原住民を都市部に連れてきて、その先進性を見せた後に再び送り帰す、という先例を踏襲していた。
1930年10月、台湾中部山地の霧社でセデック族約300名が武装蜂起し、霧社公学校の運動会に集まっていた内地人134名と台湾人2名を殺害するという第一次霧社事件が起こり、内地観光事業は一時的に中断されるものの、太平洋戦争の直前まで断続的に続けられている。ここで詳しく述べる紙幅はないが、事件の指導者モーナ・ルダオが内地観光団の参加者であったことは、必ずしもこの事業が為政者側の狙い通りの印象操作ができていなかったことを示しているだろう(山辺健太郎編『現代史資料22 台湾2』みすず書房、1971年)。命じられた観光に対する不満や内地人との不平等性への気づきが反発を招くこともあったのである。また逆に、霧社事件の際に「味方蕃」として討伐に参加した台湾原住民の姿があったことも付言しておこう。