――ゼロ年代とジェノサイズの後に残ったのは、不愉快な荒野だった?生きながら葬られた〈元〉批評家が、墓の下から現代文化と批評界隈を覗き込む〈時代観察記〉
スコアラーでもクリエイターでもなく、ゲーセンのコミュニケーションノートに集っていた平凡な常連たちを語る本は少ない。
所用で遠出していたら、学生時代に通っていたゲームセンターの同窓会連絡網から珍しく連絡があった。「あれ、神崎だよ」と。何の話かと思ったら、熊澤という元農林水産事務次官の老人に殺されたニート息子の事件だった。確かに、テレビで見た被害者の写真はよく顔を合わせていた頃の写真だった。ゲーセンでは神崎と名乗っていて、本名も知らなかったので神崎と呼ぶが、会えば挨拶していたし、常連たちで食事へ行ったこともある。とはいえ、友人と言うほど親しくはなく、19年前にゲーセンが閉店した後は接点もなく、前述の同窓会連絡網にもいなかった。実家がいわゆる上級国民で、オンラインゲームの世界で問題人物だったことも事件後の報道で初めて知った。
個人的な記憶を辿った限りでは、時折、棘のある言動はあったが、基本的には温厚な人物だった。当時の常連仲間に言わせると、出版業界のマニアックな話題や大言壮語を繰り返す筆者のほうがよっぽどおかしい人物で、本当に出版業界へ入ったので「普通」扱いになったが、何者でもない予備校通いの高校生がそんなことを話していたら正気を疑われるのは当然だ(当時、すでにライターデビューしていたのだが、嘘だと思われていたことも最近知った)。
そのゲーセンは予備校(美術学校)とアニメ専門学校の隣にあったから、重篤中二病患者たちの野戦病院だった。筆者は絵描きでもないのに中二病だったから悪目立ちしていたが、神崎より絵は上手いが「画力=人間の価値」と公言する、神崎よりクズな人格のプロ絵描き予備軍も山のようにいて、そいつらを使って一山当てようとする悪い山師たち(同人ゴロやゲーム業界人)も蠢いていたから、正直、素人の域を出ない神崎の居場所はなかった。それでもアニメーター志望だったから、いつも永野護を模写したようなメカ絵のポートフォリオを抱えていた。筆者はライターを経てエロマンガ誌の編集者になっていたから、プロの目線で感想を求められたこともある。なので、エロマンガの持ち込みと同じような感覚で長所と短所を淡々と説明したが、それで怒るようなこともなかった。プロになれる才能はなかったが、憧れていることはよくわかったので、趣味の範疇でそれに近づくための指摘に留めたからだ。