――K-POPや中華圏のスマホアプリ、果てはタピオカミルクティーなど、ここ数年、韓国や中華圏のコンテンツが当たり前のように日本で受け入れられ、しかも活況を呈している。現在に至るまで、日本で中韓エンタメはどのように受容されてきたのだろうか?
かつて、ドラマや音楽、アニメがアジアを席巻し、近年も政府主導で「クールジャパン」と謳っていた我が国だが、上記のように近年は韓国と中華圏の躍進が目覚ましい。いつからアジアのエンタテインメントの中心は中韓に移ったのだろうか? 本稿では戦後から現在に至るまでの中韓エンタメ受容史を振り返ってみたい。
まず、韓流ブームを語る際、メディアでは『冬のソナタ』(2003年)を中心とするドラマの流行を「第一次韓流ブーム」と定義しているが、それ以前から韓国コンテンツはすでに受容されていた。
過去の雑誌などを見返してみると、80年代のチョー・ヨンピルと桂銀淑(ケイ・ウンスク)の紅白出場と、88年のソウル五輪を契機に韓国独自のエンタメが取り上げられるようになっていった。
そんな中で00年代始めに革新的な映画が登場する。『「韓流」と「日流」――文化から読み解く日韓新時代』(NHKブックス)などの著書がある、一橋大学のクォン・ヨンソク准教授は、こう説明する。
「80年代までの韓国旅行といえば、いわゆる『キーセン観光』が主流をなし、90年代は『焼肉・アカスリツアー』が一般的だったりと、日本人にとって韓国は快楽と消費の対象でした。そんな韓国のイメージを変えるほどのインパクトがあったのが映画『シュリ』(99年)です。社会的なメッセージを持つ『シュリ』はその高い完成度で、これまで日本人が抱いていた韓国に対する見方を変えました」
一方で、K-POPを受容するファンダムも90年代半ばから存在していたと、ポップカルチャーのファン文化に詳しい、長崎県立大学の吉光正絵准教授は語る。
「香港ブーム(後述)の余波を受け、90年代後半にはすでにK-POPに興味を抱く者が多く存在していました。その中で重要なのがSMエンタテインメントの神話とYGエンタテインメントの1TYMという2つのグループです。アイドル要素の強い神話に対し、1TYMはクラブ寄りの音楽性で、その後、神話が東方神起につながるファンの流れを、1TYMはBIGBANGにつながる流れを作ったんです」
もっとも、こうした新しい文化を受容するのは、ごく一部でしかなかった。しかし、01年にSMエンタテインメントが、エイベックスと提携してBoAをデビューさせると、状況は大きく変わる。「POP ASIA」の元編集長で、音楽評論家である関谷元子氏は、ブレイク前夜の出来事を明かす。
「BoAがデビュー直前にSMエンタテインメントの創設者であるイ・スマン氏と話したことがあるのですが、彼は『日本の音楽シーンはバンドでは敵わないが、黒人系の音楽であれば勝ち目がある』と考えて、R&Bやダンスを選んだことを語っていました。いかにBoAの国外での展開が、戦略的に練られたものであることを改めて思い知りましたね」
前述したグループ以外にも、90年代後半からさまざまなグループが日本進出を図ったが、結果的に定着したのは日本語で歌うBoAや東方神起だった。