浜松市全国産業博覧会に出演したアミ族の若者(1931年/著者蔵)
台湾総督府の植民地官僚たちは、山岳部で抵抗を続ける「生蕃」と呼ばれた原住民を統治するために、彼らを日本本土に呼び寄せて、見学させる内地観光事業を考案した。台湾からの「内地観光団」は、1897年から1941年までの計17回来日し、当初は渡航費も官費で賄われた。ただし「観光」といっても初期のそれは、我々が知るような自発的・能動的なものではなく、観光ルートの選択権のない、他発的・受動的な観光であった。なぜなら、内地の軍事力や工業力、商業力などを見せつけることで「生蕃」たちを感化し、その抵抗意識を削ぐという植民地政策の一環として観光団が組織されたからである。また、文明国としての日本イメージを原住民に植え付けることで、植民地政府に都合のいいような協力者や農民の育成も企図されていた。
明治・大正期に発行された絵葉書の中に観光団のタイヤル族が旅館で食事している一枚がある。このように比較的穏やかな表情で写っているものもいくらかはあるが、この頃のものには、とても「観光」を楽しんでいるようには見えない硬い表情のものが多い。例えば、一行が見物人に囲まれながら移動や施設見学をしている様子や、警察官に引率されて整列している様子、警官との記念写真など、さまざまなバリエーションがある。