──年齢不詳、職業不明、痛風持ち……老獪タカスが、自らの五臓六腑をすする気合で過激に告白&提言
事務所にある大谷フィギュア。日本製だったら、こうはならないだろう。似てるかどうかは関係ない。そのスケールや躍動感は、精密さを求めすぎる日本では表現できないものだ。
右ひじの靱帯再建手術を受け、リハビリを続けてきた大谷翔平が、先月、ケガから復帰した。早速、ビッグフライ(特大ホームラン)を放ち、ボールパークを沸かせている。“働き方改革”なんてどこ吹く風で、急がず休まず、出版社の社長業をやっている私だが、大谷が出場する試合だけは、仕事の手を止めて、欠かさず観ている。
新橋の私の事務所には、大谷フィギュアを飾っている。去年秋、大谷のメジャー1年目の最終戦を現地アナハイムで取材してきた岩手めんこいテレビの工藤哲人プロデューサーからのお土産だ。大谷は岩手県奥州市水沢の出身。水沢は“偉人のまち”として知られるところで、翔平のほかにもうひとりスケールの大きな“平”がいる。戦前の政治家・後藤新平だ。私は去年春、水沢を訪ね、工藤の案内で後藤の生家や記念館などを巡った。後藤の写真は口ひげに長いあごひげを蓄え、威厳たっぷりの表情のものしか見たことがなかったが、地元に残っている20代前半の写真は、ひげも伸ばしておらずスッとした顔立ちでなかなかの好青年。どことなく大谷に似ていなくもない。
後藤は発想のスケールがとにかく大きく、“大風呂敷”と呼ばれ、称賛と非難の両方を浴びた。関東大震災後、当時の国家予算の3倍以上にあたる40億円で政府が焼け跡を買い取って復興を手がけるという計画はその最たるものだったが、都度、議会などの反発を浴び、規模は縮小するも常に最善の手を尽くそうとした。
内務大臣や外務大臣などを務めたものの総理の座にはあと一歩届かなかった後藤の知名度は今ひとつかもしれないが、政治家になる前は医師であり、偏見を持たない科学的思考の行政手腕は高い評価を受けた。台湾経営の成功、初代総裁としての南満州鉄道の運営、震災後の東京の復興などは、綿密な調査から得られるデータをもとにしていた。国勢調査は、後藤が本土を差し置いて植民地・台湾で実施したのが日本で最初である。
ビッグマウスだがクールな目を持っている後藤の真骨頂は、将来を見すえた人づくりにある。農業経済学者だった新渡戸稲造(岩手県盛岡市出身)は、アメリカで『武士道』を執筆した直後に後藤からの熱烈なオファーを受けて台湾に渡った。製糖業の近代化に貢献し、“台湾砂糖の父”と呼ばれるようになった新渡戸を国際連盟事務次長のポストに導いたのも後藤だった。