萱野 二足歩行をするようになったことで空いた“両手”で食べ物を運ぶということですか。子は安全な木の上にいて、親が食べ物を運んできて食べさせる。それが、走るのが遅くなるという欠点を上回る利点になったと。
更科 ここで「犬歯の縮小」が大きな意味を持ってくるんです。
萱野 つまり“牙”がなくなったということですね。それと二足歩行には、どんな関係があるんですか?
更科 チンパンジーは、コロブスという小さなサルを狩って食べることがあります。これはチンパンジーの凶暴性を示す例として紹介されることが多いのですが、実際のところはチンパンジーはほとんど肉を食べないんですね。チンパンジーは雑食とされていますが、肉食は1割にも満たないレベルで、ほぼ草食といっていい。これはゴリラも同じです。つまり、チンパンジーやゴリラの鋭くて立派な牙は、狩りのためのものではありません。これは同種のオス同士の争いに使われているものなんです。
萱野 チンパンジーは実はとても凶暴で、殺し合いのような争いをするというのはよく聞きます。
更科 オス・メスの個体数の比率を見れば、その激しさがわかると思います。通常であればオス・メス比はほぼ1対1になるはずですが、チンパンジーは7対10とか、極端な場合は5対10とか、オスのほうが圧倒的に少なくなっています。これはオス同士の殺し合いの結果なんです。ある研究ではチンパンジーのおよそ9割が、リンチに加わったり、手を下さずとも現場に居合わせたりするなど、なんらかの形で同種間の殺害に関わった経験があるという報告もあります。そのぐらい、オス同士の激しい争いが多いのですね。
萱野 チンパンジーでは群れのオスが集団で別の群れを襲撃してオスを皆殺しにするようなこともあるそうですね。
更科 環境の変化でテリトリー争いが起きて、数年かけて別の群れと戦うといったこともあるようです。
萱野 そうなると、ほとんど戦争ですね。
更科 ただ、チンパンジーのオス同士の争いの原因は、やはりメスをめぐるものが多くなっています。
萱野 つまり人類に牙がなくなったのは、オス同士のメスをめぐる争いが少なくなったことの結果だと推測されるわけですね。
更科 そうです。動物において最大の武器は牙なんです。ライオンやサメを恐ろしく思うのは、牙で噛まれることが怖いからです。小さな子どもが犬を怖がるのも同じですよね。牙がなければ怖くない。人類の縮小した犬歯は、そういった武器にはなりません。
萱野 人類は“道具”を武器として使うようになったから犬歯が小さくなったということは、考えられないでしょうか?
更科 私はそれはないと考えています。ただ、武器を仲間同士の争いに使用するようになったことが進化に寄与したという説は、ずっと人気があったんです。映画『2001年宇宙の旅』の冒頭でも、大きな骨を武器として使うようになった猿人が人類の祖先となったと解釈できる印象深いシーンがありますね。この説は、レイモンド・ダートという人類学者の研究から広がったものです。彼は約280~230万年前に生きていたとされるアウストラロピテクス・アフリカヌスの化石を研究していて、その頭骨に武器で殴られたような痕が見つかったことから、人類は進化の初期の段階で同種の争いに武器を使うようになったと主張したのです。これを発展させたのが動物行動学における業績でノーベル賞を受賞したコンラート・ローレンツです。例えば争っている犬は一方が腹部を見せれば攻撃をやめるようにお互いの争いを抑制するように進化してきたけれど、人類は短期間のうちに武器を発達させたから、そういった抑制を進化させることができず、戦争のような異常な殺戮を行うようになったと主張しました。
萱野 人類は“たが”が外れていると。
更科 実際には先ほども言ったようにチンパンジーをはじめ、同種間で激しく殺し合う動物はたくさんいます。そもそものきっかけになったダートの主張も現在では根拠のないものであったことが判明しています。アウストラロピテクスの化石の傷は、ヒョウに襲われたときの牙の痕や洞窟が崩れたときについたものであることが判明したんですね。
萱野 犬歯の縮小については、食べ物が変わったからという説もありますよね。硬いものをすり潰して食べるためには牙よりも平らな歯のほうがいい、という。
更科 食べ物の変化が原因であった場合、上下の牙は同時に小さくなっていくはずです。一方で牙を武器や威嚇に使うときは上の牙が重要ですから、オス同士の争いがゆるやかになったことが犬歯の縮小の原因である場合、上の牙から小さくなります。人類の場合は化石を見る限り、上から小さくなっています。他の類人猿の化石と比べると、サヘラントロプスの犬歯は格段に小さい。もちろん食べ物の変化も関係していたと思いますが、基本的にはオス同士の殺し合いが減ったことが原因だと考えられます。
萱野 そうすると、なぜオス同士の殺し合いが減っていったのかという問題になりますね。
更科 オス同士の争いが減っていったことと直立二足歩行の進化が同時に起きたことを説明することができる仮説がひとつだけあって、それが“一夫一婦制”です。
(次号に続く)
(構成/橋富政彦)
(写真/永峰拓也)
更科 功
1961年生まれ。東京大学総合研究博物館研究事業協力者、明治大学・立教大学兼任講師。東京大学大学院理学系研究博士課程修了。専門は分子古生物学。『化石の分子生物学――生命進化の謎を解く』(講談社現代新書)で第29回講談社科学出版賞を受賞。その他の著書に『絶滅の人類史――なぜ「私たち」が生き延びたのか』(NHK出版新書)、『進化論はいかに進化したか』(新潮選書)など。
萱野稔人
1970年生まれ。哲学者。津田塾大学教授。パリ第十大学大学院哲学科博士課程修了。主な著書に『国家とは何か』(以文社)、『死刑 その哲学的考察』(ちくま新書)、『社会のしくみが手に取るようにわかる哲学入門』(小社刊行)など。