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オトメゴコロ乱読修行【46】

「普通の女子」としての精神的成長を体現し続ける歌姫・『椎名林檎』の肖像

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――サブカルを中心に社会問題までを幅広く分析するライター・稲田豊史が、映画、小説、マンガ、アニメなどフィクションをテキストに、超絶難解な乙女心を分析。

「普通の女子」としての精神的成長を体現し続ける歌姫・『椎名林檎』の肖像の画像1

 デビュー20周年を迎えた椎名林檎が、通算6回目の紅白歌合戦出場を決めた。すっかり国民的歌姫化した林檎だが、多くの男性オールドファンの気分は、こんなところではなかろうか。

「最初のアルバム3枚は狂ったように聴いてたけど、東京事変は最初だけ。10年代以降はNHKに近いし、サッカー日本代表の応援だのオリンピックだの、なんか遠い。事変前までが神だったなー」。

 アラフォー世代によく知られている林檎のイメージは、初期(98~03年)のヒット曲歌詞を見れば一目瞭然だ(左頁上キャプション参照)。文語調・旧仮名遣い・旧字体。病み感前面出しのMVビジュアル、金切り声の巻き舌唱法によるアバズレ風昭和歌謡テイスト、猥雑にして自傷の予感、「死に方を探してる」臭、要はメンヘラの文学少女の詰め合わせだ。当時の林檎は、エキセントリックになりたい普通の女子、および日陰で非モテな文学少女ワナビーの10代にとってカリスマであり、全開の自我を昭和初期だか大正ロマンだかの和モノ世界観で煙に巻きたい思春期男女の理想的パッケージングであった。

 しかし林檎は3枚目のアルバム『加爾基 精液 栗ノ花』(03)を発表したあと、ソロ活動をパタリとやめてしまい、バンド「東京事変」(03年結成、12年解散)での活動をスタートする。

 東京事変は、初期こそソロ時代の楽曲テイストを引きずっていたものの、中期以降はサウンドも歌詞も変容していく。「あたし」が「生きていく上での問題」を歌詞の全面に打ち出したソロ時代に比べ、歌詞の当事者性・切迫性は作を追うごとに薄れ、良くも悪くも「運転中にBGMとしても聴ける」オシャ楽曲化したのだ。対峙する音楽ではなく、流す音楽。むき出しの情動ではなく、整理された完成度と実験性。林檎自身が作曲しない曲も増加。そう、「バランスが取れた」のだ。ギター担当のメガネ男子・浮雲人気もあいまって、つまんねー女子大生のファンが増え始めたのは、このあたりから。ミュージカル調に仕上げられた「女の子は誰でも」(11)が資生堂の化粧品「マキアージュ」のCMソングとして書き下ろされたことは、当時の想定ファンを端的に示している。

 林檎は東京事変中期にソロ活動も再開しているが、こちらでも「あたし」は後退した。「ありあまる富」(09)では物質主義的な「世界」への異議を唱える社会派ぶりを見せ、NHKの朝ドラ「カーネーション」(11)の主題歌として書き下ろした同名曲では大文字の主語である「女」の人生の健気さと強さを歌い上げた。この頃の林檎は「おんなの人生賛歌」の色が濃い。

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