(写真/中山正羅)
『技術への問い』
マルティン・ハイデッガー(関口浩/訳)/平凡社ライブラリー/1500円+税
1953年にハイデガーがミュンヘン工科大学で行った講演をもとにした表題の論文のほか、「技術」をテーマにした計5本の論考を収録。現代技術の本質と人間の関係、存在のあり方を考察する後期ハイデガーの代表作。
山番は森で伐採された木を測定する者だが、外見上、彼は祖父と同じやり方で同じ森の道を見回っている。しかし、そのことを自覚しようとしまいと、今日、彼は木材を利用する産業によって用立てられている。彼は木材繊維の用立て可能性の一部として用立てられ、そして木材繊維のほうは紙の需要によって挑発され、紙は新聞やグラビア誌に送り届け〔zustellen〕られる。しかし、新聞やグラビア誌は、印刷物をむさぼり読むように世論を仕向ける〔stellen〕。それはそれらの印刷物が、用立てられた世論操作にとって用立て可能となるためなのだ。まさに人間は自然エネルギーよりもいっそう根源的に用立て〔Bestellen〕へと挑発されているのだから、けっしてたんなる一用象にとどまることはない。技術に携わることによって、人間は開蔵のひとつのあり方としての用立てに参加する。しかし、用立てが展開される領域としての不伏蔵性それ自体は、けっして人間が作り出したものではない。
今回も後期ハイデガーの存在論について考察していきましょう。
ハイデガーの哲学が前期と後期に分けられることは前回確認しました。前期のハイデガーにとって重要なのは、人間にとって世界はどのようなものとして存在するのか、という問いでした。これに対して、後期ハイデガーにとって重要なのは、存在の世界からみると人間はどのような存在なのか、という問いです。
上の引用文をあらためてみてください。そこでは「用立て」という言葉が何度もでてきます。たとえば現代の山番は、一見すると祖父の代と同じ仕事をしているようにみえますが、より巨視的な観点にたつならば「木材を利用する産業によって用立てられている」といわれています。
ここには後期ハイデガーの方法がよくあらわれています。後期ハイデガーにとってまず着目すべきは、存在の世界でそもそも何が生じているのか、ということです。引用文の例でいえば、存在の世界で生じているのは、あくまでも大量の木材が紙へと加工され、消費されるという、一連の物質の流れです。その物質の流れからみれば、山番はそれが実現されるために徴用されている一要素にすぎません。ハイデガーのいう「用立て」とは、そうした「徴用」を指しています。つまり「用立て」という言葉そのものに、存在の世界で生じていることを起点として人間存在を考えようとする、ハイデガーの方法論が反映されているのです。