――男性同士の恋愛やセックスが描かれたBLは、すっかり市民権を獲得した。だが、LGBTという言葉が日本でも浸透した今、その作品を生み出す女性作家や愛好者の“腐女子”は、男性同性愛を搾取・消費していることにならないのか――。この時代に、改めてBLという文化の功罪を問いたい!
オメガバースBLとして田中東子氏が挙げた夏下冬『奥様はα』。
有働由美子、二階堂ふみ、吉木りさ、NMB48・山本彩らが、BL愛読者=腐女子であることを公言するなど、もはや“BL”も“腐女子”も一般的なワードとして飛び交っているのは周知の通りだ。改めて説明すると、BL(ボーイズラブ)とは主に女性作家が男性同士の性愛を描いた小説やマンガなどの表現であり、腐女子のほとんどは異性愛者の女性であるといわれている。作品の多くは、激しいアナルセックス・シーンが描かれているのだが、LGBTの権利向上が叫ばれている現在、いわゆるノンケ女性の勝手な妄想世界であるBLは、現実の男性同性愛者にとってアリなのかナシなのか――。
実はこの問題、1992年に“やおい論争”(当時、BLは同人誌作家が自嘲的に使った「ヤマなし、オチなし、意味なし」の頭文字を取って“やおい”と呼ばれていた)として大きな議論が巻き起こっている。端緒となったのは、フェミニズム系ミニコミ誌「CHOISIR(ショワジール)」にてゲイの佐藤雅樹氏が書いた「ヤオイなんて死んでしまえばいい。ヤオイなんて大嫌いだ。差別してやる。こんな奴らの人権なんて、認めてやらない」という文章である。それは次のような内容だった。
「だって、こいつら、俺たちゲイのセックス描いて、男同士がセックスしてる漫画読んで、喜んでいるというじゃないか。そんな気持ちの悪い奴らを好きになる理由も必要もない。第一、不快だ!」
「ヤオイが好きなのは鑑賞に耐え得るゲイだけだ。ヤオイにとって醜いゲイは、ゲイとは認識されないのだろう。恐らく、ただのゴミ、なのだろう。もしかしたら、気持ち悪い変態ジジイでしかないのかもしれない。ヤオイにとって、そもそもゲイは人間ではないのだ。だから、自分たちのイマジネーションをかきたててくれる綺麗なゲイ、と、そうでないゴミ、にしか分類されないのだろう」
事実、90年代のBLはホモフォビア(同性愛嫌悪)的だったとする言説がある。BLと女性のセクシャリティーズを研究する溝口彰子氏は、自著『BL進化論 ボーイズラブが社会を動かす』(太田出版)で、90年代BL作品には“定型”があり、そのひとつに男性キャラクターたちは相思相愛になって、セックスする前に必ず「オレはホモなんかじゃない」とノンケ宣言をするという点を指摘している。
「定型BLでは、ホモフォビアを全面的に受容したうえで、主人公たちの恋愛をドラマチックにしたてるための小道具として同性愛を利用しているのだ。さらに、男と恋愛関係に入ってからも繰り返される『俺はゲイなんかじゃない。君だけが好きなんだ』という決まり文句は、今度は『男だから好きになる(本物の)ゲイは、変態だ』という意味をおびることになる。つまり定型BLは、ホモフォビアを前提とするだけでなく、さらにそれを再生産する、二重のホモフォビア言説装置なのだ」(『BL進化論』)
先の佐藤氏の発言に対しては、やおい愛好家・高松久子氏が「見直す作業を伴わざるを得なくなる」と語ったり、翻訳家・栗原知代氏が「女でありながら、男同士の物語に逃避した自分」と向き合うなど、BLにおける課題が浮き彫りになった。