2020年に五輪開催を控える東京と日本のスポーツ界。現代のスポーツ界を作り上げ、支えてきたのは1964年の東京五輪で活躍した選手たちかもしれない。かつて64年の東京五輪に出場した元選手の競技人生、そして引退後の競技への貢献にクローズアップする。64年以前・以後では、各競技を取り巻く環境はどう変化していったのか?そして彼らの目に、20年の五輪はどう映っているのか――?
こんどう・ひでお
[車いすバスケ・車いすアーチェリーほか多数]
1935年3月28日生まれ。51年、炭鉱事故で脊髄骨折、以降車いす生活となる。64年、東京パラリンピックに日本選手として参加。65年、日本初の車いすフルマラソン、車いすバスケットボールに参加。74年、東京都町田市の職員として採用される。81年、国際障害者年日本推進協議会結成に参加。2007年より高知県安芸市に移住。11年にNPO法人障害者自立生活センター「土佐の太平洋高気圧」を設立し、現在も副理事長を務めている。
「これだけの設備があれば、俺たち障害者も普通に生活できるよな!」
スロープや障害者用トイレが完備された選手村に入った時、近藤秀夫は車いすバスケのチームメイトと、そうはしゃいだという。
近藤は健常者として岡山県に生まれた。2歳の頃に実母を亡くし、終戦後は戦争から戻って来た父親の仕事の都合で、福岡県田川市の鉱山へ移り住んだ。
「父親が結核になりましてね。当時の炭鉱には多かったんです。結局父は亡くなって、育ての母は幼かった妹を連れて故郷へ帰り、私は兄たちと炭鉱に残って働くことにしました」
近藤の身に災いが降りかかったのはそんな折、まだ16歳の時であった。
近藤が少年時代を過ごした、福岡県田川市の炭鉱街の様子。
「炭鉱の中で使うレールを運ぶことになりましてね。本当は14人くらいで運ばなきゃいけないんですけど、12人くらいしかいなかった。しかも私はチビだったから、一番先端を肩に担いでいたんです。前日、雨が降ってぬかるんでいたせいか、私の後ろで“テコ”の役割をしていた人が滑りそうになってパッと離れてしまった。そしたらそれを見た他の人たちも本能的にレールを離してしまって、その重さが全部私1人にかかったんです。その瞬間、脊髄がポキっと折れて、身体がV字になって突き出た脊髄が土に刺さった感触を覚えています。あっという間に気を失って、気がついたら三井田川病院に担ぎ込まれていました。数人がかりでV字になった身体を元に戻す最中、激痛で枕を食い破ったことを覚えています」
障害者としてほぼ寝たきりの生活を余儀なくされ、退院後、国立重度障害者センターへ移ることに。もともと傷痍軍人向けの施設で、当時は“リハビリ”や“社会復帰”という概念が一切ない時代だった。