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不定期連載「東京五輪1964-2020」【12】

【多額の強化費の先を見た飛込選手・馬淵かの子】が語る東京オリンピック

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2020年に五輪開催を控える東京と日本のスポーツ界。現代のスポーツ界を作り上げ、支えてきたのは1964年の東京五輪で活躍した選手たちかもしれない。かつて64年の東京五輪に出場した元選手の競技人生、そして引退後の競技への貢献にクローズアップする。64年以前・以後では、各競技を取り巻く環境はどう変化していったのか?そして彼らの目に、20年の五輪はどう映っているのか――?

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まぶち・かのこ

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[飛込]女子飛板飛込 7位

1938年1月6日生まれ。兵庫県神戸市出身。旧姓津谷(つたに)。松蔭女学校(現・松蔭中学校)入学と同時に始めた飛込で、瞬く間に頭角を表し、16歳で日本代表としてアジア大会に出場。飛板飛込、高飛込の両競技で銅メダルを獲得した。その後56年メルボルン、60年ローマ、64年東京と3大会連続で五輪に出場。一度は引退するも産後に現役復帰し、再び日本代表として活躍した。二度目の引退後、同じく飛込の選手であった夫の馬淵良と共にJSS宝塚スイミングスクールを立ち上げ、実子の馬淵よしの、寺内健を始め、飛込で数多くの五輪選手を排出。現在も同スクールで指導に当たっている。


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 五輪に投資は付きものである。主に1964年東京五輪の遺産として、ホテル、上下水道の拡充や、東海道新幹線の開通などが挙げられることからもそれは明らかだろう。だが、五輪はスポーツの祭典であり、当然各競技にも多額のお金が投入される。64年でも2020年でもそれは変わらない。東京五輪がなければ、新国立競技場など各種スポーツ施設が建設されることはなかったはずだ。それは主役である選手にも当てはまる。現在スポーツ庁は、年間100億円以上を強化費として各協会に配分している。64年東京五輪当時にも同様の方策が立てられ、飛込で出場した馬淵かの子も、その恩恵を受けたオリンピアンの1人であった。

「神戸から草津まで、タクシーで移動したこともありましたよ。夫がコーチも担当していましたから、東京五輪が終わったらひと財産残ったくらいです。しょっちゅう合宿があって、その間は夫婦揃って、泊まる場所も食事も用意されていましたから」

 日本において飛込は、間違いなく“マイナー競技”の部類。恐らく、五輪以外では目にしたこともない人がほとんどだろう。そんな競技に馬淵が出会ったのは中学生の時。まだ神戸という街が、戦火から立ち直りかけている最中であった。

「入学した松蔭女学校に飛込プールがあってね、飛込部もあったんですよ。でも私ね、泳げなかったんです。小学生の頃はまだ戦争が終わったばかりで神戸は焼け野原でしたから、学校にプールがなくて、水泳の授業では須磨海岸まで行ってたんですね。あそこには飛び込める場所があって、だけどそこまで泳げなかったから、悔しい思いをしながら飛び込む人達を見ていました。そしたら中学校に泳がなくても飛び込める台があったから“こりゃあいいわ”と。始めたのはそんな単純な動機だったんです」

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