2020年に五輪開催を控える東京と日本のスポーツ界。現代のスポーツ界を作り上げ、支えてきたのは1964年の東京五輪で活躍した選手たちかもしれない。かつて64年の東京五輪に出場した元選手の競技人生、そして引退後の競技への貢献にクローズアップする。64年以前・以後では、各競技を取り巻く環境はどう変化していったのか?そして彼らの目に、20年の五輪はどう映っているのか――?
あらき・としあき
[フェンシング] エペ個人 一次予選敗退/エペ団体 一次予選敗退
1942年5月31日生まれ。北海道歌志内市出身。北海道札幌南高校入学後、フェンシング部に入部し、競技を始める。立教大学進学後、在学中に64年東京五輪に出場。以降2度のアジア大会、6度の世界選手権に出場を果たし、36歳の時に当時の新記録となる日本選手権11回の個人優勝を達成する。日本スポーツ賞優秀選手賞も2度受賞。引退後はさまざまな大学のコーチを歴任した後、現在は健康科学財団の役員として沖縄で職務に就いている。
スポーツには、チャンスをつかむ競技と、そうでない競技がある。そして、五輪はその“チャンス”になり得る。
前者の代表例を挙げるならば、サッカーはその筆頭に当たるだろう。当時の日本ではマイナー競技だったが、64年東京五輪のためにドイツ人指導者デットマール・クラマーを招聘し、アルゼンチンを下してベスト8を獲得。翌65年にはクラマーの教えに従い、Jリーグの前身となる日本サッカーリーグを設立。68年メキシコ五輪の銅メダル獲得という快挙を成し遂げただけにとどまらず、以降も選手のプロ化や海外派遣を積極的に行い続けた。その“投資”の結果が93年Jリーグ開幕であり、98年W杯初出場であり、2002年W杯日韓大会開催である。競技人口でも野球を抜いたといわれ、今やサッカーをマイナースポーツと評する日本人は誰もいない。前回も触れた通り、サッカーの大きな発展の源流は、東京五輪であることに異論ないだろう。主力メンバーであった釜本邦茂や川淵三郎の名前は、その後の活躍も手伝ってサッカーファン以外にも馴染みがある。
一方で、チャンスをつかめなかった競技もある。64年東京五輪で、フェンシング日本代表がフルーレ団体4位に輝いたことを、一体どれだけの人間が記憶しているだろうか。
「田淵(和彦)さんも大川(平三郎)さんも強かったですよ。田淵さんとはエペで勝ったり負けたり、大川さんとはフルーレでは勝てなかったな」