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小田嶋隆の「東京23話」【22】

【小田嶋隆】北区――行き場のない考えを抱く男と、欄干を渡る中学生の邂逅

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東京都23区――。この言葉を聞いた時、ある人はただの日常を、またある人は一種の羨望を感じるかもしれない。北区赤羽出身者はどうだろう? 稀代のコラムニストが送る、お後がよろしくない(かもしれない)、23区の小噺。

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(絵/ジダオ)

 何かから救われるためには、その前にまず誰かを救わなければならない……という考えないしは信仰を、私がひとりの中学生を通して教えられたのは、1982年の2月のとある寒い月曜日のことだった。

 新卒で入った会社を1年で辞めて、その半年後に5年付き合った恋人と別れてみると、25歳になったばかりの失業者には、何もすることがなかった。

 その日は、自宅から15分ほど歩いた先にある岩淵水門付近の河川敷で風に吹かれていた。そうするほかに時間のつぶしようが見つからなかったからだ。岩淵水門は、はるか秩父の水源から流れ至った荒川の下流域を、2つの河川に分岐させて調整する施設で、2つの分流は、この場合、大正時代に浚渫された人工河川である荒川放水路(現在は単に「荒川」と呼ばれている)と、かつての本流で江戸時代は「大川」と呼ばれていた隅田川を指す。ちなみに、岩淵水門は隅田川と新河岸川の合流点でもある。

 その、大小4本の流れが行き交う結節点であり、4つの土手が並走する複雑な地形を備えた水門付近の河川敷は、若い人間が行き場のない考えを遊ばせるのに好適な場所だった。とはいえ、このことはとりもなおさず、行き場のない考えを抱いていない一般人にとって、真冬の河川敷が、寒いだけの魅力を欠いた散歩コースであることを物語ってもいた。

 いずれにせよ、この季節の平日に川を訪れる人間は、多かれ少なかれ世間から遊離した人間に限られていた。その隔絶感が、当時の私を川に呼び寄せたものの正体だった。つまり、私は、自ら選んだ現状である失業と失恋に適応できていなかったのだ。

 一向に気持ちの晴れないくさくさした昼下がりの散歩を切り上げて土手沿いの斜面を登り切った時、新河岸川にかかる橋の欄干を歩く人影が見えた。

「おい」

 私は、走り始めていた。

「あのバカ、飛び込むつもりだぞ」

 50メートルほど走って、志茂橋と呼ばれる橋の中ほどにたどりつくと、私は、1メートルほどの高さの欄干に跳び上がった。そして、歩いている先行者を抱きとめ、そのまま、川とは反対側の橋の上に飛び降りた。欄干に登ったのは、橋の地面から直接欄干を歩く人間に手を伸ばすと、かえって突き落とす結果になることが想像できたからだった。

 私たち、つまり、欄干を歩いていた中学生と私は、もつれ合う形で、コンクリート製の橋の地面に着地した。結果、私は右の足首に軽い捻挫を負った。中学生は右肘をすりむいている。

「あぶねーだろうが、このバカが」

 私は腹を立てていた。欄干から飛び降りた瞬間までは無我夢中だったものが、地面に降りてみると、感情の抑制が切れて、一気に安堵と怒りがこみ上げてきたのだ。

「おまえのせいで怪我をしたぞ」

 少年は黙っている。

「ふざけてんじゃねえぞ」

 睨み返してくる視線の険しさに、思わず手が出そうになった。元来、私は、暴力的な人間ではない。他人を本気で殴ったのは、後にも先にも小学校5年生の時に、隣のクラスの生徒とケンカをした時だけだ。が、この時は、自分の目の前で、こちらを睨み返してくる子どもを思い切り殴りつけたい気持ちを抑えるのにたいそう苦労した。

「キミは、このへんの子どもなのか?」

 落ち着きを取り戻すために、いくぶん丁寧な口調でしゃべることにした。

「どうして手すりの上を歩くなんてバカなことを思いついたんだ? ん? どうした? 声が出ないのか? もしかしてビビってるのか?」

「……ビビるわけないだろ」

 なるほど。おびえていると思われるのは心外らしい。こういうところは中学生だ。

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