2020年に五輪開催を控える東京と日本のスポーツ界。現代のスポーツ界を作り上げ、支えてきたのは1964年の東京五輪で活躍した選手たちかもしれない。かつて64年の東京五輪に出場した元選手の競技人生、そして引退後の競技への貢献にクローズアップする。64年以前・以後では、各競技を取り巻く環境はどう変化していったのか?そして彼らの目に、20年の五輪はどう映っているのか――?
やまもと・しんや
1939年6月16日生まれ。東京市神田区出身。本名、伊藤直(いとう・ただし)。63年に日本大学芸術学部を卒業後、日本教育テレビ(現:テレビ朝日)のADを経て、岩波映画製作所へ。市川崑監督『東京オリンピック』の撮影にスタッフの一人として参加する。65年「狂い咲き」で初監督を務め、以降ピンク映画を中心に250本以上の映画を監督。テレビ朝日「トゥナイト」のリポーターをはじめ、80年代以降はタレント・ジャーナリストとしても活動している。
五輪は「平和の祭典」。オリンピック憲章の根本原則にも、こう書かれている。
〈オリンピック・ムーブメントの目的は、オリンピズムとオリンピズムの価値に則って実践されるスポーツを通じ、若者を教育することにより、平和でより良い世界の構築に貢献することである〉
今やすっかり商業化し、世界的ショービジネスのひとつとなった五輪だが、すべての大会が本来目指しているものは〈平和〉の構築なのだ。64年東京五輪も、決して例外ではなかった。それを強く意識していた人物のひとりが、65年公開の映画『東京オリンピック』を監督した市川崑である。生前、市川は同映画の“テーマ”を各所で赤裸々に語っていた。
〈第一次世界大戦、この時はオリンピックが空白なんです。それから第二次世界大戦、これも空白。結局二人(編集部注*脚本家と)の意見が一致したのは、世界が大戦争をしていないときにオリンピックというのは行われている。だから人間は四年に一遍、平和の夢を見るんじゃないか。それをテーマにしてシナリオ書くことにしたんです〉(「青春と読書」1998年6月号、集英社)
今では、五輪の映像を記録・保存することが容易になったが、以前はオリンピック憲章により大会組織委員会が映画を制作することが義務付けられていた。中でもヒトラー政権下で開催された36年ベルリン大会を記録したレニ・リーフェンシュタール監督の映画『民族の祭典』『美の祭典』の2作は、現代でもその芸術性が高く評価されている。64年東京五輪の記録映画は当初、黒澤明が監督を務める予定であったが、予算の都合から複数の監督に話が流れ、最終的に市川が引き受けている。彼を総監督に、脚本を妻の和田夏十や詩人の谷川俊太郎、音楽を黛敏郎、撮影を宮川一夫など豪華スタッフが担当。制作に携わったスタッフ数は265人、撮影されたフィルムの長さは約9万7858メートルに及んだ。そして、若き日の山本晋也監督も、撮影スタッフとして、この映画の制作に加わっており、男子砲丸投げには山本が撮影した映像が使用されている。では、山本はどんな経緯で映画「東京オリンピック」に関わることになったのだろうか?