2020年に五輪開催を控える東京と日本のスポーツ界。現代のスポーツ界を作り上げ、支えてきたのは1964年の東京五輪で活躍した選手たちかもしれない。かつて64年の東京五輪に出場した元選手の競技人生、そして引退後の競技への貢献にクローズアップする。64年以前・以後では、各競技を取り巻く環境はどう変化していったのか?そして彼らの目に、20年の五輪はどう映っているのか――?
すずき・しょうすけ
[陸上] 十種競技 15位
1936年11月11日生まれ。静岡県浜松市出身。中学から陸上競技を始め、高校時代には棒高跳びで高校日本一に輝く。早稲田大学入学後、十種競技に転向し58年アジア大会では日本代表に選出された。大学卒業後は大昭和製紙(現:日本製紙)に入社し、64年東京五輪に十種競技日本代表として出場。翌65年、当時の川上哲治監督の依頼を受け、プロ野球初のランニングコーチとして読売巨人軍に入団。第一次長嶋茂雄監督時代の79年まで在籍し、V9を含む巨人の黄金時代に大きく貢献した。
五輪を境に、オリンピアンの人生は大きく変わることがある。東京五輪に陸上十種競技で出場した鈴木章介もその一人だ。
1964年11月、まだ日本中が五輪の興奮からさめぬ中、鈴木は地元浜松の野球場にいた。彼を呼び出した人物は、川上哲治。読売巨人軍の日本シリーズ9連覇、いわゆる“V9”に導いた、日本プロ野球史に残る伝説の名監督である。鈴木と対面し、川上はこう切り出したという。
「陸上競技のコーチに選手を鍛えてもらうと、非常に筋力も強くなり、足も速くなる、怪我も少なくなっている。だから専任で、選手を見てもらえないか」
バットも持たない、グラブもはめない。プロ野球界初のランニングコーチ、今で言うトレーニングコーチとして、鈴木に白羽の矢が立ち、巨人のV9に大きく貢献。当時、巨人投手陣の一角を占めていた城之内邦雄をして「V9最大の功労者は鈴木章介さん」と言わしめたほどである。
現代なら、技術的な指導とは別に、コンディションを整えるためのトレーニングコーチをつけるのは当たり前。だがそんな前例もない時代に、鈴木は選手個別のトレーニングメニューを組み、指導を行っていた。そんな彼の起用の背景には、選手時代に自ら知恵と工夫を絞り続けた、その競技人生にある。
鈴木は、静岡県浜松市出身。陸上競技を始めたのは意外に遅く、中学2年生の途中からであった。
「幅跳びや三段跳びをやっていたんですけど、最初は市内の大会でも予選落ちですよ。3年生になったら、市内の大会は勝ち進むんだけど、県大会は予選落ち。そんな成績でしたね」
決して飛び抜けた才能に恵まれていたわけではない、そんな鈴木に飛躍のきっかけを与えたのは、顧問の教師であった。