サイゾーpremium  > 連載  > 偶然の導きで体操を始めた少女【中村多仁子】

2020年に五輪開催を控える東京と日本のスポーツ界。現代のスポーツ界を作り上げ、支えてきたのは1964年の東京五輪で活躍した選手たちかもしれない。かつて64年の東京五輪に出場した元選手の競技人生、そして引退後の競技への貢献にクローズアップする。64年以前・以後では、各競技を取り巻く環境はどう変化していったのか?そして彼らの目に、20年の五輪はどう映っているのか――?

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なかむら・たにこ

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[体操] 女子団体3位 銅メダル獲得

1943年3月23日生まれ。新潟県三条市出身。高校時代、教師の勧めで体操を始める。東京教育大学在学中に東京五輪女子体操日本代表に選出され、長年日本女子団体の弱点と言われていた得意種目の段違い平行棒で、銅メダル獲得に大きく貢献した。68年メキシコ五輪でも日本代表として五輪連続出場を果たし、女子団体で4位入賞。現役引退後は東海大学体育学部教授の職に就き、体操競技部で後進の指導にあたった。『女子体操競技の基礎レッスン』(ベースボール・マガジン社)など著書多数。


 2020年東京五輪が近づくにつれ、出場候補選手をメディアで目にする機会も増えてきた。水泳の萩野公介や体操の白井健三など、メダルを渇望された若きアスリートの姿が、ニュースの隙間を縫う様に報道されている。

 では、1964年東京五輪開幕前はどんな競技に人々の注目が集まっていたのだろうか。女子体操日本代表として出場した中村多仁子は、自身の体験を交えながら、当時の雰囲気を話す。

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当時の体操日本代表は、国内で絶大な人気を誇っていた。

「メダルが期待されていたのは、バレーボールと体操でした。自国開催だからどの競技も日本代表として出場はできるんだけど、メダルに匹敵する種目は、特に女子は少なかったから。だからね、代表に決まった後は買い物に行くのも辛かったんですよ。レジの列に並んでいるだけでも“中村さんでしょ?”って声をかけられて、まるで名札でもつけてたんじゃないかと思うくらい。お釣りを受け取る時に、皮がむけて豆だらけの手を見せるのも嫌でした」

 事実、バレーボールと体操は、64年東京五輪のハイライトとなった。女子バレー、男子体操は金メダルを獲得しただけでなく、それぞれ“東洋の魔女”“ウルトラC”と現代にも残る流行語を生み出していることからも、当時の熱狂がうかがえる。そして女子体操も、当時の日本に大きなインパクトを残したが、それは日本代表が銅メダルを獲得したことだけが理由ではなかった。この五輪だけで3つのメダルを獲得したチェコスロバキア代表、“名花”ベラ・チャスラフスカの美貌と演技に、日本中が釘付けになっていたからである。中村は、1歳上で年齢が近かったチャスラフスカとは気心の知れた仲であった。

「彼女は凄い美人だし、気遣いはあるし、心をオープンにして日本のことを学ぼうとする姿勢もある人でした。私もああいうふうに生まれてきたらよかったなあ、って思いましたよ」

 冗談を交えながら、チャスラフスカとの思い出を話す中村だが、本人も常人離れした才能に恵まれたアスリートであった。

 中村は、新潟県三条市出身。競輪選手を志し、自転車販売店を経営する父の下に4姉妹の3女として生まれた。いかにもアスリートらしい出自であるが、当時の日本ではまだ、少女がスポーツに打ち込む環境は十分に整っていなかった。

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