琉球政府の敷地内から立ち退かされ、立法院南側の空地に移動する陳情団。
10月11日、沖縄県東村高江の牧草地で米軍の大型ヘリコプターCH53が大破・炎上した。昨年の名護市安部におけるオスプレイの墜落をはじめ、2004年の宜野湾市の沖縄国際大へのヘリコプターの墜落など、沖縄ではこれまで幾度となく類似の事故が起きてきたが、原因究明に向けた調査は、日米地位協定の壁に阻まれ、いつの間にか同型の機体が上空を飛び始めるということが繰り返されてきた。沖縄の住民の戦場と地続きの生活は、半世紀以上も続いており、本土では半ば不可視化されている占領が、この地では臆面もなく露出している。
かくも大規模な他国の軍隊の沖縄への駐留は、米軍が戦争のどさくさで島々を軍事基地化したことに端を発する。米軍は太平洋戦争終了後も沖縄の住民から土地を強制接収して基地を建設・拡張した。沖縄本島北部、本部半島の北西に位置する伊江島でも「銃剣とブルドーザー」による苛烈な土地接収が行われ、これに対し住民たちは知恵を絞って米軍に抵抗した。伊江島の抵抗運動の中心となったのが、阿波根昌鴻である。17歳でキリスト教徒となった阿波根は、1925年からキューバ、その後ペルーに移民、34年に沖縄へ戻った後、伊江島の真謝地区に移住したが、45年4月16日の米軍による伊江島上陸によって、安住の地を追われることとなる。日本軍守備隊と米軍との激しい戦闘の後、阿波根は生き残った住民らと共に捕虜となり、沖縄各地を転々とした後、47年の末になってようやく真謝に戻ることができたという。