『テレビじゃ言えない (小学館新書)』(小学館)
芸人・役者・映画監督・作家・画伯。誰もが羨む才能を持ち、それをいかんなく発揮する北野武(70)。芸人のときはビートたけし、役者や監督の時は北野武と2つの名前を使いこなす。「類稀な才能を持つ芸能史に残る芸人」と評される。この才能を発揮するまでには波乱万丈の芸人生活があった。
浅草で芸人として下積み生活を送り、ビートきよしとコンビを組み「ツービート」でデビュー。「赤信号、みんなで渡れば怖くない」などいわゆる毒ガスブームで人気を博した。
歯に衣着せぬ物言いに世間も共感。漫才だけでなく、たけしの話は週刊誌などでも紹介された。たけしを初めて取材したのは、ブームに乗った頃だった。メディアを差別することなく、時間が許す限り取材に対応。記者の間でもリップサービスに長けた芸人として評判がよかった。
「出る杭は打たれる」のが芸能界。たけしも例外ではなかった。味方だったはずの週刊誌がたけしのスキャンダルを取り上げだした。そんななかたけしの愛人を写真誌がスクープ。郊外に住む専門学生だった。父親は大手広告代理店に勤めており普通のお嬢さんだったが、彼女に対する取材のやり方を巡り、たけしは激怒。軍団を引連れて後に芸能史に残る「フライデー襲撃事件」を起こす。どんな理由があれ、殴り込みは罪。たけしに懲役6カ月。執行猶予2年の判決が下された。たけしは8カ月近く芸能活動を自粛、謹慎した。
売れっ子タレントが突然の謹慎生活。どんな生活をしているかと興味が沸く。そんな折、六本木のクラブのホステスから「たけしがよく飲みに来ている」と情報を得た。日頃から芸能人が来るクラブとなじみになっておき、網を張っていた成果である。当時、「フライデー」とライバルの写真誌にいた著者。謹慎生活の最中、クラブ遊びは絶好のチャンス。取材開始。とはいえ、いつ来るかわからない。「来たらすぐに連絡を」とホステスに伝えて、ひたすら連絡を待つ。携帯電話のない時代。連絡先は編集部。毎晩、7時頃から0時近くまで編集部で待つ。どんな取材も待つことは大事な取材の一環。「もうちょっと待っていたら」となっても後の祭り。10日ぐらい経ったある夜。9時近くに「今、入った」と連絡があった。最低1時間はいる。すぐさまカメラマン2人を連れて店の前で張り込み。すでに店の概要はわかっている。隠し撮りか、いきなり直撃か悩んだが、店の中の様子を撮るわけではない。遊んで出てきたところなら、直撃しかないと判断。店は地下。出入り口は一か所。階段を上がって出てくるしかない。店の前の路地裏で出てくるのを待った。念のためにもう1人のカメラマンを別のところに配置。我々が揉めた時の様子を撮らせる二重の取材体制。
11時近くに連れの男性と出てきた。ホステスに送られ、ご機嫌な様子。階段を上がり切ったところで「たけしさん」と声をかけ、取材意図を伝える。途端にたけしの顔色が変わった。いきなり顔を近づけ襟首を掴んできた。取材相手から首を掴まれようが、殴られようがじっとしているのが鉄則。「殴られたら、それがスクープになる」からだ。一緒にいたカメラマンは以前、事件の取材で相手のコブシが飛んでくる瞬間にシャッターを切り、決定的な瞬間を撮った経験のある猛者。心得たもので私の肩越しでシャッターを連写。
「俺がどこで誰と飲もうと勝手だろう」「芸人だからやれるんだろう。○○組の人間でも同じことができるのか」と啖呵を切るたけし。聞く耳は持たない。興奮するたけし。このままだったら殴っていただろうが、その瞬間、連れの男性がたけしを制止。仲介に入った。テレビ局のプロデューサーだった。たけしの興奮を鎮めると、「フィルムを渡せ」と言ってきた。よくあるケース。こちらに違法な取材のやり方がない場合、渡すことはない。仮に渡しても別のカメラマンが望遠で喧嘩の様子を撮っている。
翌週、「謹慎中のたけしがクラブ遊び」として記事になった。肩越しに怒り狂うようなたけしの顔のアップを使った。反響は大きかった。やがてたけしは仕事に復帰。巻き返しが始まった。
(敬称略)
二田一比古
1949年生まれ。女性誌・写真誌・男性誌など専属記者を歴任。芸能を中心に40年に渡る記者生活。現在もフリーの芸能ジャーナリストとしてテレビ、週刊誌、新聞で「現場主義」を貫き日々のニュースを追う。