2020年に五輪開催を控える東京と日本のスポーツ界。現代のスポーツ界を作り上げ、支えてきたのは1964年の東京五輪で活躍した選手たちかもしれない。かつて64年の東京五輪に出場した元選手の競技人生、そして引退後の競技への貢献にクローズアップする。64年以前・以後では、各競技を取り巻く環境はどう変化していったのか?そして彼らの目に、20年の五輪はどう映っているのか――?
いのうえ・きくこ
[馬場馬術] 個人16位/団体6位入賞
1924年12月3日生まれ。東京都芝区出身。東京オリンピックに日本初の女性選手として馬術に出場。72年ミュンヘン、88年ソウル五輪にも出場し、五輪には通算で3度参加している。ソウル五輪出場時の年齢、63歳9カ月は当時の日本五輪最高齢記録。2008年北京五輪で同じく馬術の法華津寛(当時67歳)が記録を上回るも、女性最高齢記録は今も破られていない。
2012年、法華津寛が71歳でロンドン五輪馬場馬術に出場し、自身の持つ日本人五輪出場最高齢記録を更新したことは記憶に新しい。しかし、馬術で五輪における日本人の上位進出は長く途絶えている。その馬術で、かつて日本が五輪金メダルを獲得したことを、どれだけの日本人が知っているのだろうか。男爵の爵位を持ち「バロン西」の愛称で日本国民から親しまれた西竹一が、1932年のロサンゼルス五輪馬術障害飛越競技で金メダルを獲得した。
64年の東京五輪に馬場馬術で出場した井上喜久子は、バロン西との思い出を今でも鮮明に覚えている。
「西さんは子どもの私にも優しかったですよ。父と一緒に馬を連れて練兵場へ行った時も、『キーちゃん』って向こうから声をかけてくれて」
喜久子は25年に東京・三田に生まれた。母方の祖父は、浅野財閥を築き上げた淺野總一郎である。父の馬杉秀は東大在学中に馬術部に所属、母の慶子もアメリカ留学を機に馬術に夢中になり、結婚後も夫婦の馬術への熱は冷めることはなかった。
「父は自分の家で馬を飼いたかったんです。馬を飼ったら蠅も出ますし臭いもする。三田は御屋敷町でしたから、田舎の目黒に引っ越したんです」
目黒への転居後に父・秀は、理事を務めていた馬術クラブ・東京馬術研究会のメンバーであった東久邇宮稔彦王、緒方竹虎(朝日新聞社副社長から第5次吉田茂内閣の副総裁、後に自由党総裁に就任)、森村義行(第6代内閣総理大臣松方正義の実子で、森村財閥の森村開作の養子)など戦前の政財界を代表する錚錚たる顔ぶれと、連日自宅の周りを馬で駆け回る生活を始めた。当然、その娘である喜久子も5歳から馬術を始めた。
幼少期、外出時に馬車を引いていたロバ“シルバーウイング号”。
そんな喜久子の初の大舞台は、32年9月25日に日比谷公園で開催された、ロサンゼルス五輪で金メダルを獲得したバロン西の歓迎大会である。それからさらに4年後の36年には、大人も参加する競技会で、弱冠11歳にして初優勝を勝ち取っている。