2020年に五輪開催を控える東京と日本のスポーツ界。現代のスポーツ界を作り上げ、支えてきたのは1964年の東京五輪で活躍した選手たちかもしれない。かつて64年の東京五輪に出場した元選手の競技人生、そして引退後の競技への貢献にクローズアップする。64年以前・以後では、各競技を取り巻く環境はどう変化していったのか?そして彼らの目に、20年の五輪はどう映っているのか――?
ほんだ・だいさぶろう
[レーシング男子カナディアン・ペア]1000m・C2:準決勝敗退
1935年2月17日生まれ。熊本県八代郡坂本村出身。日本初のオリンピックカヌー選手で、64年の東京オリンピックで正式種目として採用されたカヌー競技へ出場した。熊本県立八代高等学校・日本体育大学体育学部体育学科・自衛隊体育学校卒業。横浜市消防訓練センター体育訓練担当教官・その後は各大学のカヌー部コーチを経て、神奈川県の三浦市にあるマホロバ・ホンダカヌースクールの代表役を務めている。息子はレスリング選手・プロレスラーの本田多聞、サッカー選手の本田圭佑は兄の孫。
迷走を続ける20年東京五輪の報道を眺めながら思った。64年の東京五輪は、今よりも遥かに物資は少なく、日本の国際的な地位も低かった中で行われた。現在よりも多くの困難が生じていたはずだが、国史に残る一大行事となった。選手やスタッフはどうやって乗り越えたのだろう……それは僕らが20年を迎えるためのヒントにならないだろうか?
その20年東京五輪に向けて、俄然注目が集まっている競技がカヌーだ。昨年のリオ五輪で、羽根田卓也選手が日本カヌー史上初の五輪銅メダルを獲得。東京で、二大会連続のメダル獲得にも期待が集まるが、実は日本人が五輪カヌー競技に出場したのは、64年東京五輪が初めてのことであった。
「64年の東京五輪の際、40年の東京五輪(開催が決まっていたが支那事変などで開催返上)に出られたかもしれない学徒動員で亡くなった10万人を祀るため、国立競技場の片隅に祠(ほこら)を建てたんです。新しい国立競技場を建設するために名前を刻んだプレートは別の場所に保管してあるはずなので、その祠はまた建ててほしいんですよ」
目を潤ませながら20年五輪への想いを語ったのは、第1回カヌー五輪選手団のエースとして、64年の五輪に出場した本田大三郎。レスリングでロサンゼルスから3大会連続で五輪に出場し、後にプロレスラーへ転向した本田多聞は息子。そしてサッカー日本代表の本田圭佑は、兄の孫である。
カヌーを始めたのは五輪開催のたった3年前
本田は現在の熊本県八代市出身。球磨川沿いの生家は山林に囲まれ、大自然の中を駆け回る毎日だった。この“遊び”が、本田の屈強な身体を作る源となった。
「熊本のど田舎で、子どもの頃は川で遊ぶくらいしかやることがないわけですよ。木を川に浮かべてまたがって漕いだり、渡し舟を漕がせてもらったり、球磨川で暴れ回ってました」
いかにもカヌー選手らしいエピソードだが、このときはまだカヌーという競技の存在さえ知らず、地元の県立八代高校に進学後、本田はハンドボール部に入る。彼はこの競技に夢中になった。高校卒業後、当時もっともハンドボールが強かった日体大に進学するも、経済的な理由から1年で中退。その後、高校時代の恩師の紹介で自衛隊の試験を受け合格し、自衛隊体育学校へ赴任した。これが本田の競技人生にとって大きな転機となった。