(写真/永峰拓也)
『神学・政治論』
スピノザ(畠中尚志/訳)/岩波文庫/上下巻(現在絶版)
17世紀オランダの哲学者スピノザが1670年に匿名で刊行、聖書解釈と国家についての考察から思想と言論の自由を論じる。当時の政治権力と密接に結びついていた宗教的権威に批判的な内容が危険視されて禁書処分を受けた。
『神学・政治論』より引用
加うるに、人間は考えられる限りのどんな非行をも敢えてするものであるとはいえ、何びともしかし自己の非行を正当化する為に律法を抹殺したり、涜神的な事柄を救いに役立つ永遠の教えとして導入したりはしない。実に人間の本性というものは次のように出来たものであることを我々は見ている。即ち各人(王者たると臣民たるとを問わず)は、何か恥ずべき行いをした場合は、自己の行為を諸々の事情に依って美化し、その行為が正義或いは端正にもとっていないように見えるようにするものである。
(旧仮名遣い・旧漢字を現代表記に変更)
道徳についてしばしば「性善説か、性悪説か」ということが議論になります。人間の本性は善なのか悪なのか、という問題です。
西洋の哲学の歴史においては、しかし「性善説」「性悪説」という概念はあまりでてきません。それもそのはずで、この「性善説」「性悪説」という概念はもともと中国思想から生まれたものです。ただ、これらの概念をあえて西洋の哲学史に当てはめるなら、18世紀までは「性悪説」的な考えが優勢で、19世紀以降、徐々に「性善説」的な考えが優勢になってきた、と大ざっぱには言えるでしょう。20世紀以降の現代の哲学においては、ヒューマニズムが広く浸透したこともあって(理論的にはヒューマニズムに疑問を投げかける哲学者もいますが)「性善説」的な考えがはっきりと優勢になっています。
では、今回とりあげるスピノザはどうなのでしょうか。スピノザは17世紀オランダの哲学者であり、この時代の他の多くの哲学者とともに「性悪説」的な考えをもっていました。右の引用文にある「人間は考えられる限りのどんな非行をも敢えてするものである」という言葉は、そうしたスピノザの考えをあらわしています。この点、スピノザは人間の「善性」というものにまったく期待していません。ヒューマニズムの価値を根本では否定しない現代の哲学者たちとは正反対の発想をしていたんですね。
ただしスピノザは、人間には同時に自分のやったことを正当化したがる性質があることも認識していました。引用文にはこうあります。「即ち各人は〔……〕自己の行為を諸々の事情に依って美化し、その行為が正義或いは端正にもとっていないように見えるようにするものである」