――ゼロ年代とジェノサイズの後に残ったのは、不愉快な荒野だった?生きながら葬られた〈元〉批評家が、墓の下から現代文化と批評界隈を覗き込む〈時代観察記〉
一面的な偶像化である国民的スターは、偏見による諸説で多面的に検証される宿命にあるが、生前か死後か?
浅田真央の引退でテレビのニュースもワイドショーも埋め尽くされ、記者会見がNHKと民放各局で生中継で『徹子の部屋』も飛んだから『やすらぎの郷』まで飛ぶんじゃないかとヒヤヒヤしていた(もっとも、テレビ東京だけはやっぱり謎の歌番組で女性演歌歌手の知りたくもない個人情報を垂れ流していて、唯一の救いだったが)。周囲には「国民的スターなんだから、しょうがないだろ」と言われたが、爽やかさと泥臭さを臆面もなく表現できていることが怖かった。同じアスリート系スターでも、クールな洒落者であるイチローやキングカズなら「演じている」一瞬が見えるのだろうが、天然自然な純粋さは自己洗脳力の高さに裏付けられている。長嶋茂雄のように。
尾木ママが週刊文春のコラムで「弱さを抱えながらも、ひたむきにスケートに向き合う姿は日本人を引きつけてやまないのよね」と評していたが、その無邪気な感想に尾木ママだけで収まらない不穏な空気を感じてしまった。才能がありながら、五輪ではキム・ヨナの後塵を拝し続けてきたが、笑顔は崩さなかった。そういう痩せ我慢の美学がバブル崩壊以降、どうにも負け犬根性が染み付いている国民性と合致してしまったのだ。