(写真/永峰拓也)
『法の哲学』(Ⅰ・Ⅱ巻)
ヘーゲル(藤野渉・赤沢正敏/訳)/中公クラシックス(01年)/1500円(Ⅰ・Ⅱ)+税
「理性的なものは現実的なものであり、現実的なものは理性的なものである」という有名な言葉でも知られる大著。「法」「正義」「権利」など人間社会全般に通じる概念の本質を明らかにしようとする法・政治哲学の金字塔。
『法の哲学』より引用
国家は倫理的理念の現実性である。
――すなわちはっきりと姿を現わして、おのれ自身にとっておのれの真実の姿が見紛うべくもなく明らかとなった実体的意志としての倫理的精神である。そしてこの実体的意志は、おのれを思惟し、おのれを知り、その知るところのものを知るかぎりにおいて完全に成就するところのものである。国家は習俗において直接的なかたちで顕現し、個々人の自己意識、彼の知と活動において媒介されたかたちで顕現するが、他方、個々人の自己意識もまた、心術を通じて彼の実体的自由を、彼の本質であるとともに彼の活動の目的と所産であるところの国家のうちにもっている。
これまで2回にわたって、ヘーゲルは国家をどう考えていたのか、ということを考察してきました。ただ、それによってヘーゲルの国家論に疑問をもった読者もいるかもしれません。
というのも、ヘーゲルは、人びとに共有された価値観こそが国家の基礎になっていると考えたからです。ヘーゲルが「国家は倫理的理念の現実性である」と述べるとき、念頭に置かれているのは、倫理的な価値観や広い意味での「習俗」を共有した人びとが、自分たちの集団的な安全や独立(これをヘーゲルは「実体的自由」と呼んでいます)を守るために国家を設立した、という考えです。そうしたヘーゲルの考えを押し広げていけば、日本という国家が現実に存在するのは、日本的な価値観や文化を共有した人びと(日本民族?)が自分たちの安全や独立を守るため、ということになります。日本の文化や伝統こそが日本の国家をなりたたせている、という保守的な国家観にひじょうに近い発想を、ヘーゲルはもっていたんですね。
事実、ヘーゲルの哲学はこれまで多くの人から批判されてきました。とりわけ、リベラルな思想をもった哲学者たちはヘーゲルの哲学を抑圧的・全体主義的なものだと厳しく批判してきました。現在でも、ヘーゲル哲学の評判はそれほどよくありません。
とはいえ、そうしたリベラル派からの批判がどこまで妥当なものなのか、については検討の余地があります。ここでは、各人の政治信条を離れて、冷静に、理論的に考えていきましょう。