――ゼロ年代とジェノサイズの後に残ったのは、不愉快な荒野だった?生きながら葬られた〈元〉批評家が、墓の下から現代文化と批評界隈を覗き込む〈時代観察記〉
テレビと芸能を語ろうと思うなら、個人の生理的な好き嫌いを隠してはならないし、加えて矜持も必要だ。
今月の本誌の特集も含めて、「最近、アイドルや俳優の引退が多い」という話題はあちこちでよく聞くが、その現象自体は、芸人まで含めてタレントの過剰供給状態で、報じるメディアも拡大した結果、契約終了まで話題として可視化され、消費される「偶像の聖域なき大衆化」だ。
芸能事務所の歴史は、やくざ者の興行でしかなかった第1期から、月給制などを取り入れることで正業となった第2期を経て、現在は企業コンプライアンスなどを強化した第3期に入った、と言えるだろう。ところが、第1期のシステムや因習も残っているのに、第3期は引退や契約終了の理由まで事細かに明示しなければならなくなっている。これはこれで当人たちにとってはたまったものではない。当然、言いたくないことも含まれているのは成宮寛貴の一件を見ればわかるだろうし、それでも現役を続けようとすれば、今度は清水某のように露悪的にならざるを得ない。能年某はとりあえず本人に後ろめたさがなかったから、アニメや声優といった「第2芸能界」を利用してうまくロンダリングできたが、小林幸子の復活劇のように、第1と第2をシームレスに渡り歩く老獪な痛快さはない。
和田アキ子はニッポン放送のラジオ番組で、山本裕典の一件を「何を理由に解雇になるんだろう?」と評したが、第2期の先駆だったホリプロの最古参で、第2期の「やくざ者と大衆の中間」な世界観に過剰適応することで「芸能界のご意見番」に祭り上げられた和田が首を捻っているのは、第3期の過剰にクリーンさを装ういびつな状況だ。だからこそ、老害と罵られているのだが、引退でも続行でも釈然としない閉塞感が漂ってしまうジャンルで生きているのは、ライターも同じだ。