――批評家・宇野常寛が主宰するインディーズ・カルチャー誌「PLANETS」とサイゾーによる、カルチャー批評対談──。
宇野常寛[批評家]× 成馬零一[ドラマ評論家]
恋ダンスになると、平匡さん役から一変してミュージシャン・星野源になるのも見どころのひとつ。
2016年の秋~年末にかけて放映された『逃げ恥』は、久々の民放発のヒットドラマとなった。エンディングの「恋ダンス」がどれほどはやったかは、もはや説明不要だろう。主演の新垣結衣&星野源がいかに可愛いかを語る記事や、労働という観点から焦点を当てた記事など、さまざまな読み解きがなされているが、本稿では同作がテレビドラマとしてどのように優れていたのかを、あらためて語ってゆく。
成馬 本作の感想は「良いドラマだった」の一言に尽きます。2016年にこの作品があって本当に良かったと思いました。今のテレビドラマは、物語が複雑で敷居の高いドラマと、『ドクターX』(テレビ朝日)のような単純でわかりやすいドラマの二極化が進んでいる。その中にあって、『逃げ恥』はちょうど中間だった。「ガッキー可愛い」「星野源可愛い」「恋ダンス楽しい」という軽いノリで入ってくる人たちでも楽しめる敷居の低さで視聴者を引きつける一方、深く観ていくとフェミニズムや今の社会問題を扱っていることがわかってくる。大絶賛する人もいる一方で、「この程度の作品」と低く見る人もいるけど、この幅の広い観られ方が、最終的に視聴率20%に到達した理由だと思う。だから単純に「面白い」とか「好き」というより、「正しいドラマ」という感じがします。
「今面白いドラマを作りたいなら、最低限これはやらないといけない」ということをちゃんとやっていた。旬の俳優である新垣結衣と星野源を主演に起用して、脚本は『重版出来!』で注目されつつある野木亜紀子【1】、演出家は金子文紀・土井裕泰・石井康晴【2】というTBSのエースを3人揃えるという座組みの見事さ。
それとやっぱり「恋ダンス」ですよね。1話放映後に完全バージョンをYouTubeでオフィシャルに公開して、「踊ってみた」をやる人のために星野源の所属レーベルが「ドラマの放映期間中は音源の使用を認める」と発表したことで爆発的に広がった。これも、アニメの世界では『涼宮ハルヒの憂鬱』で10年前に起きていたことだけど、ドラマの場合は芸能界的なしがらみがありすぎてできなかった。そういう、今の時代に作品を観てもらうために、やらなくてはいけないことをちゃんとやったことが、勝因だったと思います。
宇野 そのあたりは、嫌な言い方になるけど、民放ゴールデンタイムのドラマがやっと21世紀基準に追いついたともいえる。堀江貴文さんやひろゆきさんが「もっとわかっている人がネット回りをやれば、『恋ダンス』は『恋するフォーチュンクッキー』になれたのに、テレビ局や芸能事務所は頭が固くてそこまでいかなかった」と批判していたけど、その通りだと思う。TBSのアナウンサーが恋ダンスに出てきたのは、本当にサムいからやめたほうがいいと思ったし。
『逃げ恥』自体の感想は僕も、とにかく良くできたドラマだと思った。キャストもいいし演出も適切だし、しっかり作り込んである。原作を読んでなかったので、第1話を観たときはちょっと良妻賢母思想への回帰というか、保守反動的じゃないかと思ったんですよ。高学歴ニートみたいなヒロインが家事代行をやるうちに本当の恋愛に発展する、というような。それがアイロニーでわざとやっているということが1話を観たときにはあまりわからなかったんだけど、観ていく内に、これはフェミニズムの成果を一通り受け止めた上で、それをどう現代に軟着陸させるかという話なんだ、とわかった。フェミニズムへの距離の取り方と取り込み方が、いい意味でクレバーでいやらしくて、非常に感心した。
成馬 田嶋陽子から「まだ、こんなことしてるの?」という批判があったように、フェミニズムを真面目に研究している人からしたら、そう言いたくなるテーマばかり出てきますよね。やりがい搾取の問題や専業主婦の労働力問題は確かに今更と言えば今更なんだけど、普通にテレビを観ている人からすれば衝撃は大きい。皆が観ている時間帯の民放ドラマで、誰でもわかるように敷居を下げて放送したことがまず第一に偉いと思う。
宇野 フェミニズムの研究者がそう言う気持ちもわかるけど、今の世の中って“終わってる”から、今世界に必要なメッセージを発しようとすればするほど、つまらないことを言わなきゃいけなくなる。当たり前のことを、なんで今更眉間にしわ寄せて言わなきゃいけないんだ、と。言っているほうも嫌だし、言われるほうもげんなりしてしまう。僕は最終2話に特に感心したんだけど、あの2話って、普通に描いたらすごくつまらなくなるポリティカル・コレクトネス(PC)の話でしょう。それを「その試行錯誤を一緒にやっていくのが恋愛の楽しさなんだ」と描いたところに感心したんだよね。今は「ポリコレ疲れ」とか言われているけど、そうではなく、ポリコレの追求自体を楽しいものとして読み替えられるのがフィクションの力であり、もっといえば恋愛の魅力なんだというのがこのドラマだったわけじゃないですか。人は正しさでは説得されなくて、憧れや誘惑によって初めて惹きつけられる。正しいことを100回怒鳴るよりも、『逃げ恥』を1回観たほうが人々はああいう問題に立ち向かう手がかりを得られる。テレビドラマの想像力からこういったものが出てきたことに、良い意味で驚きました。