サイゾーpremium  > 連載  > 学者・萱野稔人の"超"哲学入門  > 哲学者・萱野稔人の「"超"哲学入門」36回/ヘーゲル『法の哲学』
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(写真/永峰拓也)

『法の哲学』(Ⅰ・Ⅱ巻)

ヘーゲル(藤野渉・赤沢正敏/訳)/中公クラシックス(01年)/1500円(Ⅰ・Ⅱ)+税
「理性的なものは現実的なものであり、現実的なものは理性的なものである」という有名な言葉でも知られる大著。「法」「正義」「権利」など人間社会全般に通じる概念の本質を明らかにしようとする法・政治哲学の金字塔。

『法の哲学』より引用
そこで実際、本稿は、国家学をふくむかぎり、国家を一つのそれ自身のうちで理性的なものとして概念において把握し、かつあらわそうとするこころみよりほかのなにものでもないものとする。それは哲学的な著作として、あるべき国家を構想するなどという了見からは最も遠いものであらざるをえない。そのなかに存しうる教えは、国家がいかにあるべきかを国家に教えることをめざしているわけはなく、むしろ、国家という倫理的宇宙が、いかに認識されるべきかを教えることをめざしている。(中略)存在するところのものを概念において把握するのが、哲学の課題である。というのは、存在するところのものは理性だからである。

前回から引きつづき、今回もヘーゲル『法の哲学』の一節について考察していきましょう。

 ヘーゲルは上の引用文のなかで、この『法の哲学』は哲学的な著作であるかぎり「あるべき国家を構想するなどという了見からは最も遠いものであらざるをえない」と述べています。つまり、国家を哲学的に考察することは、「国家はいかにあるべきか」「どのような国家が望ましいのか」を考察することではない、ということです。私たちは国家を哲学的に考察するなんてきくと、思わず「国家はいかにあるべきか」「どのような国家のあり方が望ましいのか(共和制国家なのか、君主制国家なのか、福祉国家なのか、最小国家なのか……)」ということを考察することだと考えてしまいがちですが、ヘーゲルによれば、哲学はそうした「べき」論とは何の関係もないということです。

 では、国家を哲学的に考察するとはどういうことでしょうか。引用文の最後の部分でヘーゲルはこう述べています、「存在するところのものを概念において把握するのが、哲学の課題である」と。

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