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第2特集
再始動で見えたハイスタの“失敗”【2】

【磯部 涼×矢野利裕】ハイスタはZeebraに追い越された!? メロコアが日本語ラップに”劣る”理由

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――ハイスタが牽引したメロコアは衰退した一方、日本語ラップは若者が享受している文化のように見える。なぜ、このように”差”が生まれたのか──。本誌で「川崎」を連載する音楽ライター・磯部涼と、『SMAPは終わらない』(垣内出版)の著者で日本語ラップにも造詣が深い批評家・矢野利裕が、両文化について徹底討論!

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ご存じ、ZeebraをフィーチャリングしたDragon Ash「Greatful Days」。この頃、いわゆるミクスチャーが人気だったが……。

矢野(以下、) 僕は83年生まれで、磯部さんより5歳年下ですが、15歳くらいから日本語ラップを聴き始め、USのラップでもDMX【1】などを同時代のものとして聴いていました。高校に進むと、僕自身は関心が高くはなかったけど、オフスプリング【2】のTシャツを着ているようなメロコア【3】好きがいたり、友達が「AIR JAM」に行ったりしていましたね。このように、学生時代はヒップホップとメロコアが並列していた記憶がありますが、99年にもともとメロコア・バンドだったDragon Ash【4】がZeebra【5】を迎えて「Greatful Days」を出しましたよね。また、2000年代に入ると『CONNECTED』【6】というヒップホップとハードコア・パンク【7】のコラボ盤が出るなど、ミクスチャー【8】と呼ばれるジャンルが台頭。その中にはメロコアも日本語ラップも要素としてあったけど、00年代後半には完全に別々のシーンになりました。結果的には、『高校生RAP選手権』や『フリースタイルダンジョン』(テレビ朝日)が人気を博す日本語ラップのほうが若者に訴求する文化として生き残ったという認識です。一方、メロコアは若者文化としては衰えた印象があります。

磯部(以下、) 僕は、高校生だった90年代半ばから日本語ラップを聴き始めたのですが、同じ頃にハイスタが出てきた。日本のカルチャーは人種や階級で分かれているわけではないから、メロコアやラップといったスタイルは選択でしかないですよね。90年代初頭から日本のハードコア・シーンを牽引したレーベル〈less than TV〉【9】は、その状況に意識的で、最初のコンピレーション『TVA』(92年)にはギターウルフ【10】やU.G MAN【11】といったバンドからヒップホップ・ユニットのキミドリ【12】まで参加していたし、ハイスタもその周囲にいた。つまり、90年代のハードコア・パンクとラップは、同じような趣味の人たちが違うスタイルを選択しただけという近さがありました。そんな中でハードコアなラッパーたちは、ハイスタ主催の「AIR JAM」を羨ましがっていた印象があります。日本語ラップは黎明期から芸能界とのつながりがあり、ECD【13】が提唱者となった96年のハードコア・ラップ・イベント「さんピンCAMP」【14】もエイベックスがバックアップしていました。だからこそラッパーたちは、業界の大人の手を借りずにDIY【15】でシーンを大きくしていったメロコアを、ある種のお手本として見ていた気がします。

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モンパチの現在の姿。こんなに太ってたっけ!?

 ただ、僕もメロコアはもはや廃れたと思っていたのですが、本誌の連載「川崎」で桜本という多文化地区で行われた地元の音楽祭を取材した際、16~17歳の少年たちによるバンドがグリーン・デイ【16】やモンパチ(MONGOL800)【17】の曲を演奏していたんです。

 ハイスタの後続世代のメロコア・バンドで、世間でも大ヒットしたモンパチに関しては、「あなたに」(01年)が合唱コンクールで歌われるようになりましたからね。そしてメロコアは00年代前半、ガガガSP【18】やGOING STEADY【19】などの青春パンク【20】のブームにつながったように思います。こうしてメロコアは、形を変えながら学校文化の周辺で生き永らえていっているのが面白いです。

 なるほど。ちなみに、メロコアはその名の通り、メロディの部分がすごく重要だと思います。ハイスタを筆頭とする日本のメロコアは、NOFXやオフスプリングといったUSパンクのモードを“輸入”しつつ、特にそのメロディにフォーカスしていった。ハイスタ以前の日本のハードコア・パンクは、メロディを削り、音の激しさとか重さとかを強調し、先鋭化していったのとは対照的に。こうしたメロコアの特徴を考える上で参照したいのが、過去の近田春夫【21】。70年代、雑誌で知ったオリジナル・パンクのセックス・ピストルズ【22】に対してアナーキーなイメージを膨らませすぎて、最初に音源を聴いたとき、そのメロディが日本の歌謡曲っぽくて拍子抜けした人も多いそうです。でも、近田はむしろそこに惹かれ、60~70年代の歌謡曲をパンク・アレンジでカバーした『電撃的東京』(78年)を発表。要するに、近田はこのようにしてパンクをローカライズしようとしたのですが、メロコアというラベリングも日本人の琴線に触れるものがあったのかもしれません。

なぜハイスタは英語で歌ったのか?

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ハイスタによるザ・フー「Kids Are Alright」のカバーのMV(96年)。横山健のロン毛時代である。

 00年代前半、通っていた大学にTOTALFAT【23】やグッドモーニングアメリカ【24】という次世代のメロコア・バンドがいて、それまでのメロコアと同様に英語で歌うべきか、あるいは日本語で歌うべきかと、彼らはよく議論していました。似たような議論は、日本語ラップでも散々なされてきましたよね。ただ、ラップの場合、それは韻の踏み方やリリックがリズムとセットになって論じられ、結果的に多くのラッパーが日本語で多彩にラップする方法を編み出し、その追求は今も続いている。だから、メロディを基調とするメロコアとは、議論の質が違ったと思います。また、日本語ラップは、リズムと結びついたサイファー【25】やMCバトルによるコミュニケーションでシーンが育まれ、そこから新しい表現が生まれたりしましたが、メロコアはコミュニケーションをどこで担保していたのか……。

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