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小田嶋隆の「東京23話」【4】

【小田嶋隆】アルコール依存症の男とその女、そして彼らの"練馬区"

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東京都23区――。この言葉を聞いた時、ある人はただの日常を、またある人は一種の羨望を感じるかもしれない。北区赤羽出身者はどうだろう? 稀代のコラムニストが送る、お後がよろしくない(かもしれない)、23区の小噺。

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(絵/ジダオ)

 西武池袋線の石神井公園駅から住宅街を北に向かって10分ほど歩いたあたりに、かつて、その世界では名の知れたペットショップがあった。店内で放し飼いにされているケヅメリクガメと一緒に撮った写真を、彼はいまでも机の前の壁に貼り付けている。ペットショップとカメが、いまどうしているのかはよくわからない。あのあたりには、もう20年近く足を踏み入れていない。通過することさえ避けている。自分にはそうするだけの理由があると、山口進次郎は思っている。

 彼がそのペットショプにほど近いところにあるマンションを最も頻繁に訪れたのは、1990年前後のことだ。当時、進次郎はとある予備校の事務所のアルバイトから正社員の身分に引き上げられたばかりのトウの立った新入社員だった。

「進ちゃん?」

 電話をかけてきたのは彩乃だ。背後のノイズで、公衆電話からかけてきていることがわかる。部屋から電話をかけられないのは、例によって、何らかのトラブルが起こっているからなのだろう。

「……悪いけど、いまから来れる?」

 進次郎は黙って次の言葉を待った。返事に窮していたというよりは、伝えなければならない言葉がはっきりしすぎていて、その言葉をはっきりと口に出す決断に、時間を要したからだ。が、

「もうたくさんだ」

 と言う代わりに

「これからそっちに向かう」

 と答えて、結局、彼は、出かける支度をはじめた。いつも同じだ。こんなふうに、真夜中の電話で呼び出されるのは何度目だろう。少なめに数えても、10回以下ではないはずだ。

 彩乃は進次郎から見て、親友の妻ということになる。そうなる前のしばらくの間、彼女は進次郎のガールフレンドの一人だった。彼女が祥一のどこに惹かれたのかはわからない。あるいは、惹かれたとか心を奪われたとか、そういう浮わついた話ではなかったのかもしれない。あるタイプの女性は、沼の縁の斜面に足をとられるみたいにして、自らの運命の深みに導かれて行く。彩乃にとって、祥一はそういう抵抗しがたい深淵だったのだろう。

 祥一と彩乃が結婚してから一年ほどたった頃、進次郎は、引越祝いの名目で、二人にホルスフィールドリクガメの幼体をプレゼントしたことがある。

 ホルスフィールドリクガメは、カスピ海東岸からアフガニスタン周辺の乾燥地帯に生息している陸棲のカメで、ロシアリクガメとも呼ばれる。性質はおとなしく、飼育はそんなにむずかしくない。ミドリガメに代表される水棲のカメと違って、水場を必要としないため、部屋が臭くなることもない。散歩も要らない。エサは葉物の野菜でいい。

 値段はヒーター、サーモスタット、専用のライト(紫外線ライトとバスキングライト)、水槽、床材など、ひと通りの飼育セットをひっくるめて6万円ほどだった。

 プレゼントに生き物を選んだのは、深刻化しはじめていた祥一の飲酒癖をソフトランディングさせるためには、適度に手間のかかるペットを持ち込むことが効果的かもしれないと考えたからだった。

 祥一と彩乃は、結婚して一緒に暮らし始めるとすぐに共同生活に行き詰まった。どうしてなのかはわからない。が、とにかく、彼らは、週末ごとに進次郎を呼び出すようになり、次第に、二日、三日と滞在を求めるようになった。2人きりで居ると気詰まりだからというのが、彼らが進次郎の帰宅を阻もうとする時の言い分だった。たしかに、婚約時代から、祥一と彩乃は、進次郎を交えた3人のセットでいる時の方が自然に振る舞うことのできる、奇妙な関係のカップルだった。

 とはいえ、進次郎の仕事が忙しくなると、そうそう頻繁に彼らの家に泊まってもいられなくなる。それに、3人の共同生活は、自然なようでいて、やはり、どこか芝居じみていた。

 進次郎は、泥酔一歩手前の祥一に

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