サイゾーpremium  > 連載  > CYZO×PLANETS 月刊カルチャー時評  > 月刊カルチャー時評/『トットてれび』

――批評家・宇野常寛が主宰するインディーズ・カルチャー誌「PLANETS」とサイゾーによる、カルチャー批評対談──。

宇野常寛[批評家]×松谷創一郎[ライター/リサーチャー]

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『トットてれび』ラストシーン。『ザ・ベストテン』のスタジオに、3人の黒柳徹子や向田邦子、渥美清、森繁久彌らが集結し、合唱をする。

戦後にNHKの専属女優としてデビューした黒柳徹子の半生と、彼女がテレビの草創期に出会った名優・渥美清や森繁久彌、そして脚本家・向田邦子らとの物語を描き出した本作は、ドラマファンから熱心な支持を集めた。だがそこに漂っていた死の匂いはあまりに濃厚で、テレビドラマの終わりを感じさせずにはいなかった──。

松谷 単刀直入にまず言ってしまうと、すごく面白かったんだけど、同時に非常に問題作だとも思いました。なぜなら、このドラマが描こうとしていたことは、テレビ放送というパラダイムの終焉だと受け取ったからです。その最大の理由はあのラストシーン。あれを観たときに、『崖の上のポニョ』(2008年)を連想した。『ポニョ』のラストシーンは大洪水の後の世界で、あそこに出てくる人たちは死後の世界にいる、と解釈できる。宮崎駿の中では人間と自然は地続きで、それを彼なりの死生観で描いたのが『ポニョ』だった。『トットてれび』のラストは、いろんな解釈ができるように作られていて、普通に捉えるならばカーテンコール。

 それで「よかった、よかった」と観てもいいのだけど、森繁久彌(吉田鋼太郎)とか渥美清(中村獅童)とか向田邦子(ミムラ)とか、亡くなった人がぞろぞろ出てくるわけですよ。しかも、子役が演じる黒柳徹子と満島ひかりさんが演じる黒柳徹子、本物の黒柳徹子の3人が出てきて、それぞれに「私は今日の私です」と言う。そこでは、死んだ人と生きている人が地続きになっている。ただ、死者のほうが多いことを考えると、黒柳徹子の遺書のようにも見えましたけどね。

宇野 その演出の原型は、『トットてれび』演出の井上剛【1】さんが昨春に撮ったドラマ『LIVE! LOVE! SING! 生きて愛して歌うこと』【2】にあったと思う。これは神戸と福島をつなぐロードムービーで、被災してバラバラになっていた福島の学生たちが再集結して、タイムカプセルを掘り起こしに地元へ戻るという話だった。地元に帰ったヒロインが、夜中に見た夢か現実かわからない光景として、無人の街で生者と死者が一緒に歌って踊っている祭りが描かれていた。あれが『トットてれび』の演出プランの原型になっていて、井上さんは確信犯的にあの世とこの世を混在させる演出をしていいる。『LIVE! LOVE! SING!』では被災地とそれ以外という断絶したものをつなぎ得るものとして、あの世とこの世の境界を融解させる虚構の機能がピックアップされていたのだけど、それが『トットてれび』に応用されることで別の意味が加わっている。

 それは要するに、テレビも、テレビが象徴する戦後日本も、これから先はこうやって過去の記憶を温め直すことしかできないっていう宣言と、そこに開き直って最高の葬式をしてやろうっていうこと。その手段として、メタフィクション的なアプローチと音楽の力で生者と死者を混在させている。

 もっとはっきり言ってしまえば、テレビも戦後日本ももう死んだも同然で、僕らはリスペクトを込めてそれを弔う段階に来てしまっているってことを描いているんだと思う。

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