東京都23区――。この言葉を聞いた時、ある人はただの日常を、またある人は一種の羨望を感じるかもしれない。北区赤羽出身者はどうだろう? 稀代のコラムニストが送る、お後がよろしくない(かもしれない)、23区の小噺。
(絵/ジダオ)
児童心理学では小学4年生に当たる10歳前後の一時期を「ギャングエイジ」と呼んでいる。その名の通り、10歳の男児は、ギャング(徒党)を好む。そして、仲間とツルんでは秘密結社を組織し、ことあるごとに永遠の友情を誓っていたりする。つまり、この年頃の男の子は、結果として、当人の生涯のうちで最もマッチョな時間を過ごしているわけだ。
とはいえ、身体はまだ子どもだ。本当の勇気が身についているわけでもない。だから、この時期の子供は、時に、自分自身を窮地に追い込んでしまう。これからお話するのは、私が、そんなマッチョな小学4年生だった頃の出来事だ。
1966年の夏、私が通っていた小学校の4年1組の教室では、バスの旅が流行していた。私たちは、一学期の間に、隣の小学校のナワバリにある公園の視察や、駅の西側の丘の上に造成された団地への遠征をひと通り終えて、新たな冒険のネタを求める気分の中にいた。で、夏休みに入る頃には、バスに心を奪われていた。
きっかけは、仲間のうちの二人が、四谷にあった進学教室に通い始めたことだった。何度か通ううちに、彼らは、都電とバスを乗り継いで現地まで行くルートを探り当て、あわせて、都営バスの料金体系が、ひとつの路線の範囲内なら、終点までどれだけ乗っても同一料金であることを発見した。
当時、都電と都バスの料金は一律30円だった。ということは、子どもは15円だ。これは、大発見だった。100円玉ひとつで、ちょっとした駄菓子をつまみながら、都心まで往復することができるのだ。
人気の路線は、私たちの街から王子駒込経由で、途中東大正門前と御茶ノ水を通って大手町に抜ける、東京駅北口行きの都営バスだった。我々は、この路線バスに乗って、丸の内の出光美術館を覗いたり、東大の構内を抜けて上野動物園まで歩いたりした。
何度目かの遠征で、浅草の「花やしき」に行く計画を立てた。地図に詳しいメンバーの見立てによれば、壱岐坂上でバスを降りて、そのままずっと東に向かって歩けば、じきに浅草に着くはずだった。
「わかんなくなったら」
と、そいつは言ったものだ。
「そこいらへんのおとなに聞けばいいだろ?」
我々は、「おとな」を信頼していた。若干舐めていたと言っても良い。
もっとも、当時は65年に白骨死体で発見された吉展ちゃん誘拐殺人事件の記憶がなまなましく語られていた時代でもあった。担任の女性教諭は、知らないおとなに声をかけられても決して着いて行ってはいけないということを繰り返し強調していた。ほかにも、彼女は、子どもが見知らぬ街や暗い道を歩くことの危うさを訴えてやまなかった。
我々は意に介さなかった。というよりも、小学4年生の脳内では、教師による禁止命令はそのまま誘惑に変換される。であるからして、
「先生がムキになってダメだと言ってるのは、何か面白いことがあるからなのだろう」
と、われわれは、子どもだけでこっそりバスに乗って遠出をする計画に、いよいよ熱中した。
壱岐坂上でバスを降りて湯島方面に向かう坂を降りると、すぐに道に迷った。8月上旬の昼さがりの時間帯に、湯島から御徒町のあたりをたっぷり歩きまわった4人の10歳児は、手もなく疲労困憊した。
我々は、そこいらへんのおとなに、道を尋ねることにした。
「すみません。花やしきってどっちの方ですか?」
という問いかけが間抜けだったからなのか、それとも、私たちがあんまり憔悴して見えたからなのか、爺さんは質問に答えなかった。
「おめえらどっから来たんだ?」
と、いきなり私の腕をつかもうとした。
「逃げろ」
私は爺さんの手を振り払うと、そのまま後ろも見ずに駆け出した。仲間も続いた。普通の大人は、オレたちには追いつけない。ましてあんな酔っぱらいみたいな年寄りにつかまってたまるものか。
今にして思えば、爺さんは、我々の様子を心配して素性を尋ねたのかもしれない。が、その時は、つかまったら終わりだ、と、そのことしか考えられなかった。やはりどこかおびえていたのかもしれない。
200メートルほど走ったところで笑いがこみあげてきた。恐かったのと、ホッとしたのと、うまく爺さんを振り切った痛快さが、ひとかたまりの笑いになって吹き出してきたのだと思う。われら4人は、それからまるまる2分ほど笑いころげていた。
笑いが去ると、心細さと空腹がやってきた。
「もう帰ろうか」
とひとりが言い出す。
「冗談言うなよ」
私は強い調子でたしなめた。
「こんなことぐらいでくじけてどうするんだよ」
残りの仲間も同調して、結局、3対1の多数決で、冒険の続行が決定された。とはいえ、仲間の中から脱落候補者が出て、一時的ではあれ、計画中止が検討されたことは、我々全員の心にダメージを残していた。このまま花やしきにたどりつけなかったら、オレたちの探検隊はダメになってしまうかもしれない。そうさせないためにも、なんとしても、冒険を成功させなければならない。
「交番で道を聞こうぜ」
と誰かが言った時、それは素晴らしいプランに思えた。おまわりさんなら安心だ。誘拐される心配もない。第一、交番には詳しい地図がある。
ところが、警察官は手ごわかった。にこりともしない。質問にも答えなかった。
「まず、君たちの名前と小学校を……」
と、彼がここまで言った時、私は
「逃げろ」
と言って走り出した。
学校の規則を破って子どもだけでバスに乗って来たことが発覚したら無事では済まない。とすれば、ここは三十六計逃げるに如かずだ、と思って走り出していたのは、しかしながら、私だけだった。
直線距離にして500メートルほどの道のりを一目散に駆け抜けて、あたりを見回すと、私は、見知らぬ街の、見たこともない街路に立っている。仲間は、あのまま警察につかまったのだろうか。逮捕されるなんてことはないにしても、学校に通報される展開はおおおいにあり得る。とすると、これは大変にまずい。なによりまずいのは、オレが逃亡者の境遇にあることだ。警察から逃げると、指名手配になるのだろうか。罪が重くなるのだろうか。もしかして、逮捕されるのだろうか。
心細さと、空腹と、ひとりで逃げたことの後ろめたさに苦しみながらも、なんとかもちこたえていた私の気持ちが決壊したのは、自分が金を落としたことに気づいたからだった。壱岐坂上まで歩いてバスに乗るつもりで、シャツの胸ポケットに手を入れてみると、そこにあるはずの残金が無い。85円がまるごとどこかに消えている。なんということだろう。走っている間にポケットから飛び出したのだ。
ここで、私は瓦解した。
私は泣き出した。
ギャングエイジの男児としては絶対に人に見られたくない姿だ。が、ここは見知らぬ街の誰も知らない路地だ。私は嗚咽をこらえることができなくなっていた。
その時、後ろからいきなり肩をつかまれた。
「つかまえたぞ」
さっきの爺さんだった。
「なさけねえ小僧だな」
爺さんは、口が悪かった。私の住んでいるあたりにも伝法な口調で子どもを叱りつける元気な爺さんが生き残ってはいたが、鳥越神社の近辺を根城にしているこの職人ふうの爺さんのしゃべり方は、まるで落語に出てくる町人の啖呵そのままだった。
「てっ、何をシケたツラして泣いてやがる」
私は、なんとか気を撮り直して自分が赤羽という街からバスでやってきたこと、仲間とはぐれたこと、警察官から逃げる(ここはちょっと強調した)途中で持ち金を落としたことを話した。
「ははは。デカしたな小僧。おまわりを撒いたか」
その日は爺さんに借りた金でバスに乗った。
「オレはこのへんにいる。金はいつか返しに来い」
と爺さんは言っていたが、結局、それっきりになっている。
この話にも、後日談に近い話があるといえばある。
爺さんにカネを借りてからたっぷり四半世紀が経過した頃の話だ。
その当時、私は、パソコンまわりのライターをやっていたこともあって、かなりの頻度で秋葉原の電気街を訪れていた。1990年代のはじめ頃は、手持ちのパソコンをマトモに機能させること自体が大仕事で、必要なケーブル類や周辺機器の中にも、秋葉原に出向かないと手に入らないブツがけっこうあったからだ。フロッピーディスクのような消耗品にしても、池袋や新宿の量販店で買うのと、アキバのショップで買う場合では、値段がまるで違った。秋葉原のパソコン街が、その種の特権的な地位を失いはじめたのは、おおむねWindows95が発売された1995年以降で、私が秋葉原通いをやめたのは、21世紀にはいってからだ。その頃には、自作パソコンの部品を手に入れるということでもない限り、ほとんどのブツは家電量販店で入手できるようになっていたし、アキバの裏道を歩き回って掘り出し物に出くわすようなこともほとんどなくなった。
その日、私は珍しく秋葉原の東側を歩いていた。こちら側にも、多少部品関係のショップがあるといえばあったし、昭和通り沿いには、ジャンク屋なのか質屋なのかよくわからない不思議な品揃えの店が出ていたりして、ひたすらに人口密度の高い駅の西側とは違う風情が楽しめた。
昭和通りを渡って台東区に入ると、風景は一変する。風景というのか、時代が30年ぐらい昭和に戻る感じだ。
三井記念病院から北に方向を変えて、蔵前橋通りの先をなおしばらく歩くと、空襲から焼け残った古い建築が残っている町並みが現れる。実際、佐竹商店街やおかず横丁周辺の路地には、現在でも、モルタル外装をしていない板壁の木造家屋や、戸袋や外壁を銅の板で葺いた土蔵が残っている。
店舗の看板や路地いっぱいに並べられた鉢植えを眺めながら歩きまわっているうちに、私は、いつしか、かつてあの口の悪い爺さんにバス代を借りた場所に立っていた。町名で言えば、台東2丁目から3丁目にはいったあたりだろうか。古い石造りの店舗と、外壁を植物に埋められた住宅と、人ひとりがやっと通れる細い街路が折り重なっているあたりだ。まるで、時間がそのまま30年戻ったみたいに、周辺のたたずまいは、小学4年生だった私が見ていた景色と変わっていない。
と、印刷屋の看板の下に、記憶の中にあるのと同じ格好をした爺さんがいる。麻の白シャツに灰色の作業ズボン。磯野波平仕様のソフト帽をかぶっているところまで同じだ。
爺さんは、通りに置いた椅子に座って道ゆく人々を眺めている。懐かしい姿だ。かつては、東京の東半分の町であれば、どこであれ、通りに椅子を出して町を歩く通行人を監視している年寄りがいたものだ。その、平成にはいってからの東京の町並みが決定的に喪失してしまった路上監視員の爺さんを、台東区は、いまだに残存させている。なんと見事な町ではないか。
「なんだ? オレの顔に何かついてるか?」
私があんまりしげしげと顔を見ていたからなのだろう。爺さんは、立ち上がっている。
声まで同じだ。あの時の、オレをつかまえた爺さんそのままだ。
もちろん、あの爺さんがそのままの姿で25年も生きているはずはない。たぶん、息子さんか、弟なのか、でなければ、この界隈に常駐している量産型の爺さんなのだろう。
私はやや大げさにアタマを下げ、25年前に、このあたりで、ソフト帽をかぶった紳士にバス代を恵んでもらった話をした。
「そりゃ、オレのオヤジだよ」
爺さんは断言した。
「20年前に80で死んだ」
「中気で3年寝てたな」
「まあ、大往生だ」
「25年前なら、75歳だったはずだ」
私は、その、息子の方の爺さんの、断片的かつ一方的で、かつ、いつ終わるのかわからない話に曖昧な相槌を打ちながら、どこで話の腰を折っていとまを告げて良いものなのか、機をうかがっていた。
「線香をあげて行くか?」
「…………」
私はさらに困惑した。家にあがって線香なんかあげたら、いつ帰れるのか、わかったものじゃない。
「それともおまえ、また一文無しなのか?」
ニコリともせずに爺さんがそう言った。
素晴らしい間のとり方と、落とし方だ。正しく古典落語が継承されている。まったく見事な爺さんだ。
「おあとがよろしいようで」
大笑いしながら私が言うと、爺さんは
「また遊びに来い」
と言った。
あの時から数えて、再び、25年がたっている。同じ場所に行けば、もしかして、あの爺さんが、もう一度同じ姿で立っているかもしれない。
とはいえ、もう訪れる気持ちは無い。
爺さんがいなかった場合の落胆に対処する自信がないからだ。
小田嶋隆(おだじま・たかし)
1956年、東京赤羽生まれ。早稲田大学卒業後、食品メーカーに入社。営業マンを経てテクニカルライターに。コラムニストとして30年、今でも多数の媒体に寄稿している。近著に『小田嶋隆のコラム道』(ミシマ社)、『もっと地雷を踏む勇気~わが炎上の日々』(技術評論社)など。