――ビデオジャーナリストと社会学者が紡ぐ、ネットの新境地
[今月のゲスト]
岩波 明[昭和大学医学部教授・精神科医]
『他人を非難してばかりいる人たち バッシング・いじめ・ネット私刑』(幻冬舎新書)
週刊誌のスクープ、スキャンダルが話題になる一方、ネット、特にSNSの世界では、攻撃対象となった有名人へのバッシングが後を絶たない。次に叩かれるのは誰なのか? 我々はいつからスキャンダルを許せなくなっているのだろうか? 日本人が抱える不寛容さとは一体何なのか、精神科医とともに考えてみたい。
神保 今回は最近頻発している過剰なバッシングや“炎上”問題と、その背景について議論していきたいと思います。
宮台 大学でも、今世紀に入る前から、授業開始が5分遅れると「授業料を返せ」と言ってきたり、ゼミで報告の仕方を注意すると「人格を傷つけられた」と事務に泣きついたり、欠席者を放っておくと親が怒鳴り込んできたりと、クレイジークレーマーが目立ち始めます。十年前、事務から「ゼミを3回以上休んだ学生については、担当の教員が連絡を取ること」という申し入れがあり、「ここは幼稚園か」と発言すると、「お気持ちはわかりますが、どこの大学もそうしています」と。こうした変化は1996年頃から各大学でストーカーが目立ち始めた動きとシンクロしていると感じました。
神保 最近のバッシングも、そうしたクレーマー問題も、背景には「不寛容」というキーワードがあるように思います。ちょっとしたことが気に障って許せない。しかし、なぜ我々はこんなにも不寛容になってしまったのでしょうか。昔から芸能人のスキャンダルはありましたが、最近のバッシングは、そんな生易しいものではないような気がします。
宮台 芸能人スキャンダルも昔と違う。かつては皆でネタを共有して非日常的に盛り上がる、明るいお祭り。そもそも芸能人のポジションが今より高く、スター扱いでした。昨今のスキャンダル叩きは、日常で生じる仄暗い怨念が、そのまま表出されている。
初期ギリシャでは、アリストテレスの議論に見るように、パトス──感情を含めた「降りかかってくるもの──を制圧し、ヘタレな恐怖心や浅ましい嫉妬心を乗り越える存在が、“英雄的”“立派”とされました。それを踏まえたカントも、感情や欲望の赴くままに振る舞うのでなく、逆に感情や欲望を意志の力で抑える際にだけ、人は自由だとしました。
その意味で、昨今ネットで「道徳的」批判を繰り出す類いは、“立派”どころか、自分も欲望が赴くままに振る舞いたい輩が、欲望通りに振る舞える他者に、嫉妬しているだけ。芸能人に“立派”であることを求めているはずもない。〈感情の劣化〉現象の露呈にすぎません。
神保 芸能人の不倫ネタで盛り上がっているうちはまだよかったのですが、最近は「不謹慎狩り」などという言葉まで出回るようになりました。この状況は一体なんなのか、考えていきたいと思います。
ゲストは昭和大学医学部教授で精神科医の岩波明さんです。岩波先生は昨年、『他人を非難してばかりいる人たち バッシング・いじめ・ネット私刑』(幻冬舎新書)という本を書かれています。なぜみんな人を非難することに血眼になっているのかを解き明かしていきたいと思うのですが、そもそもこの本を書くきっかけは何だったのでしょうか。
岩波 私は、精神科の臨床医をしています。最近は少し収まったのですが、うつ病と自殺の問題が長い間重要な課題でした。この問題がなかなか解決できない原因として、日本社会の特性のようなものがあるのではと考えたのがこの本の執筆のきっかけです。
診療の現場にいると、最近、会社なり組織なりのさまざまな締め付けが非常に厳しくなっていて、そこからこぼれ落ちる人が増えていることを感じます。それほど重症な病気ではなく、例えば軽度の発達障害の人、俗にいう新型うつの方などが、2000年頃から明らかに増加しています。以前は会社、特に大企業はこういう人に寛容で、あるメガバンクでは快復まで「1日2時間勤務」を5年、10年と続けられる仕組みがありました。しかし、今ならばすぐに解雇になるでしょう。企業はスリム化し、リストラも盛んになり、コンプライアンスがうるさくいわれている。そういう“生きにくさ”が、バッシングの問題にも影響を与えていると思います。
神保 宮台さんも、最近のバッシングと以前のそれとの間では、違いがあると感じますか。
宮台 外的要因と内的要因を分けると、外的要因としてはネットやSNSを誰もが利用可能になり、ネガティブな思いを表出しやすくなったのがあります。〈脳内ダダ漏れ〉です。昔なら日記で留まったものがネットに露出して「見える化」した面もあるけど、かつて日記を書いていたとはいえ、昨今のネットの書き込み程じゃなく、大した要因じゃない。
同じく外的要因として、岩波先生がおっしゃる「社会の許容度」の縮小があります。昔あった企業や地域による「包摂」が消えて放置された人が、ネットやSNSでの攻撃的な書き込みを通じて炙り出されたことが大きいでしょう。
加えて内的要因です。大学では20年前から変なクレームをつける学生や親が増えます。平成不況深刻化が始まった97年とシンクロして見えますが、クレーマーやストーカーが目立ち始めたのはその直前。先の外的要因とは別の原因で人々が不寛容になり、道徳や法に準拠すると見えて、実は浅ましき俗情の表出にすぎない営みを、始めたんだと思います。
95年はインターネット元年。97年からの平成不況深刻化よりも、そちらの方が効いているかもしれません。ネットのおかげで、かつてのように他者たちの視線や社会の常識を参照しなくても、表出できるようになったのです。この時期が〈脳内ダダ漏れ〉の出発点です。