(写真/永峰拓也)
『犯罪と刑罰』
チェーザレ・ベッカリーア(風早八十二・五十嵐二葉訳)/岩波書店(38年)/660円+税
1762年に刊行。当時の絶対主義的刑罰制度の中で執行される死刑と拷問に対して社会契約説の立場から痛烈な批判をおこない、その廃止を訴えた初の書として知られる。その後のヨーロッパ各国の近代刑法改革に大きな影響を与えた。
『犯罪と刑罰』より引用
このように刑罰のせめ苦を濫用することが決して人々を良くしていないのをみて、私は検討したくなった。
――死刑はほんとうに有用なのか。賢明な政体にとって正しいことなのか。――を。
人間が同胞をぎゃく殺する「権利」を誰がいったい与えることができたのか?この権利はたしかに主権と法律との基礎になっている権利とは別のものだ。法律とは各個人の自由の割前――各人がゆずることのできる最小の割前の総体である総意を表示する。さてしかし、誰が彼の生命をうばう「権利」を他の人々に与えたいなどと思っただろうか?どうして各人のさし出した最小の自由の割前の中に、生命の自由――あらゆる財産の中でもっとも大きな財産である生命の自由もふくまれるという解釈ができるのだろう?
読者のみなさんは死刑制度に賛成でしょうか、反対でしょうか?
内閣府は5年に一度、死刑制度に対する国民の世論調査をおこなっています。直近の世論調査は2014年11月におこなわれました。それによると「死刑もやむを得ない」と死刑制度を容認したのは80・3%でした。これに対して「死刑は廃止すべきである」と答えたのは9・7%です。その前の2009年の世論調査では、死刑を「やむを得ない」と容認したのは85・6%でした。この数字と比べると、今回は死刑容認派が少しですが減っています。とはいえ、それでもやはり国民の大部分が死刑制度を――積極的に賛成しているとまではいえないにしても――容認していることには変わりません。
こうした死刑容認の趨勢からいえば、読者のみなさんの大部分も死刑容認派かもしれません。積極的に賛成、という人も少なくないでしょう。
では、哲学の歴史のなかでは死刑はどのように議論されてきたのでしょうか。ここではまず、死刑に反対した18世紀イタリアの法哲学者、チェーザレ・ベッカリーアの議論をみていきましょう。
もしかしたら読者のなかには、なぜ死刑賛成論ではなく死刑反対論を最初に取り上げるのかと疑問に思う人もいるかもしれません。死刑反対論を最初に取り上げるのは、なにも私がその反対の立場をみなさんに押し付けたいからではありません。そうではなく、哲学の歴史のなかではずっと死刑という刑罰は当りまえのものだったので、ベッカリーアの死刑反対論がでるまでは死刑についてそれほど踏み込んだ議論がなかったからです。彼の死刑反対論がでたことで、死刑に賛成する側もようやく理論的に踏み込んで死刑を擁護するようになったのです。