批評家・宇野常寛が主宰するインディーズ・カルチャー誌「PLANETS」とサイゾーによる、カルチャー批評対談──。
宇野常寛[批評家]× 切通理作[ライター]
パロディながらリアリティを孕んだ16話(上)と、ラグビー協会とのコラボの9話。
2015年の「ウルトラマン」テレビシリーズは、ウルトラマン生誕50周年を目前に控え、平成ウルトラマンの客演も相次いだ記念すべき作だった。仮面ライダーに比べ、ここ数年は広く話題になりづらかったウルトラマンシリーズが、本作でようやく迎えた新たな境地とは?
切通 『ウルトラマンX』(以下『X』)は、平成ウルトラマンシリーズにおける『ウルトラマンコスモス』(01年)以降の集大成だったな、というのが全体の感想です。それから、今までウルトラマンって、特に平成になってからは、『ウルトラマンマックス』(05年)のように、エピソードごとに豊かなものを作る代わりにシリーズ構成をある程度緩くするか、反対に『ウルトラマンネクサス』(04年)のようにシリーズ構成をあくまで活かして連続性を重視するかのどちらかに寄っていた印象があったけれど、『X』は両方ちゃんと立っているという意味で、かなりうまくいったシリーズだと思った。全22話しかないのにシリーズ構成だけで4人いて、脚本家は10人もいる。最初はそれが不安だったんだけど、一話一話のテイストの違いとシリーズのうねりが連動していて、良い効果を生んでいた。
宇野 平成ウルトラ3部作(『ウルトラマンティガ』96年、『ウルトラマンダイナ』97年、『ウルトラマンガイア』98年)以降のウルトラシリーズがやってきたことの総決算的に作られていましたね。『コスモス』からは怪獣との共存というテーマを持ってきて、『ネクサス』からは変身の再定義というところを持ってきていた。さらに『マックス』から始まって『大怪獣バトル』【1】(07年~)につながる昭和怪獣の再利用という要素も入っていて、『ウルトラマンギンガ』(13年)からはスパークドールズ【2】ものという流れが入っている。60~70年代の怪獣ブームの頃に比べて、今は決して放映枠も良くはないし、話数も半端な中ですごく健闘していたと思う。『X』があったおかげで、正直何をやっても中途半端な感じがあった「ポスト平成ウルトラ3部作」の作品たちの位置づけがようやくはっきりした。それも単に整理するためだけじゃなくて、しっかりエピソードとして、映像作品として昇華することによってまとめられていたのが良かったかなと。
「怪獣」の捉え直しと「特撮」の捉え直しの成功
宇野 ウルトラマンシリーズが苦戦している理由として、怪獣の意味合いがかつてと全然変わってしまったことがあると思う。まさしく切通さんが『怪獣使いと少年』で書いたように、かつて怪獣は社会のひずみのようなもの、なかなか言葉にならないし社会的なイデオロギーでも消化しきれないようなものが結晶化して出てきた存在だったけれど、そういう形ではもう機能しなくなっている。それには社会の変化や情報環境の変化とかいろんな理由があるけど、日本の怪獣映画はその中ですごく苦戦していた。円谷でいえば、この15年は怪獣とどう向き合っていいのかわからない15年だったと思う。