アメリカやカナダの独立リーグで活動する現役野球選手である筆者が、同じような境遇にある“野球人”にその挑戦と真意を聞く短期集中連載第2回。大学中退から国内の独立リーグでの経験、そして海外での挫折を味わい、いち社会人となった田久保氏は、再び野球の道へ戻ることを決意する。すでにこの時26歳。そして辿り着いたのは、思いがけない欧州での指導者としての挑戦だった――。
<連載第1回目はコチラ>
田久保は、新たに決意する。2年近く勤めていた会社を退職。再び、野球界でキャリアアップしていく道を選んだのだった。社内での営業成績は優秀だった。もし、野球をまた離れることになっても、営業の仕事に戻れる自信もある。身に着けたスキルが、いざとなったら身を守ってくれるだろう。
26歳で、田久保は現役復帰を果たした。関西独立リーグ──2009年に先行する二つのリーグ(四国アイランドリーグ・BCリーグ)に追随する形で発足──のコリア・ヘチに入団。まず取り組んだのは、野球選手としてのスタイルを完全に変えることだった。常々、野球で新たなキャリアを築くには、人と同じことをしていてはいけないと感じていたからだ。
「無名だけど、自分を見に来る人が毎試合5000人いるとしたら、プロ野球だって興行的に自分を獲得するよなぁとか考えたりしてた。だから、ブログや個人メディアの強化(SNSの利用やホームページの作成など)に取り組んだんだ」
田久保には、渡米当初からお世話になっている人物がいた。現在、アメリカ独立リーグで、監督やコーチを歴任している三好貴士である。現役時代、バット一本で、海外を渡り歩いた経歴を持つ。三好も一度は野球を諦め、社会人として3年ほど働いていた。だが、それまで培ってきたスキルや経験を、海外を目指す若者たちに還元するため、野球の道へ戻ってきた。BMI(Baseball Management Inc.)という会社を立ち上げ、海外での監督・コーチだけでなく、国内でも個人レッスンや、海外に挑戦する選手のマネジメント、海外リーグへの斡旋などを行っている。
田久保が三好と初めて出会った時、三好もまだ現役の選手だった。海外事情を全く知らない田久保を一からサポートしてくれた。田久保も三好に信頼を寄せ、そのアドバイスを行動の指針にしてきた。三好自身、海外野球を通して、苦労を重ねてきた経験がある。入団したチームの消滅や解雇など、海外野球の厳しさを散々味わってきた。だからこそ、かつての自分を投影し、田久保の可能性に惹かれていたのかもしれない。
独立リーグは、給料だけでは生活が成り立たない選手がほとんどである。田久保は野球選手としての強みを最大限生かすために、オリジナルのキャリアを積み重ね始める。三好の協力の下、オフシーズンには小中学生を対象とした野球レッスン、あるいは、繊維メーカーと連携し、選手自身をモデルにしたオリジナルTシャツの制作・販売など、幅広い活動を展開した。また、海外を中心に活躍する仲間と共に、東日本大震災復興チャリティーマッチといったイベントの企画・運営にも積極的に関わっている。
「だけど、本当に多くのことを、色々試行錯誤してやってきたけど、俺は日本のプロ野球から選ばれる人材ではなかった」
現役復帰してから3年、関西独立リーグから始まり、アメリカ独立リーグ、オーストラリアのクラブリーグ、韓国独立リーグと、さまざまな国を渡り歩く。応援してくれる人も増え、技術も格段に上がった。だが、30歳を目前に控えた男に、プロ野球という壁は高く立ちはだかったままだった。
この先、どう生きていくべきなのか。そこが未だに不透明だった。野球の世界に再び戻ったのだから、何かしら掴まなくてはいけない。そう思い、野球選手としては異色な取り組みをたくさん行ってきた。それでも、今後の方向性は全く定まらない。
「チェコでやってみないか?」野球後進国での問題意識
そんな時、田久保の元に、チェコ共和国の野球リーグでプレーしないかという話が舞い込んできた。
「野球との向き合い方を再度考えていた時に、三好さんからチェコの話があった。これまで、野球を通じて多くのことを学ばせてもらった。だから、俺にできる野球への恩返しの方法として、ぜひやらせてほしいとお願いしたんだ。それでヨーロッパのキャリアがスタートしたんだよ。途中でドロップアウトせざるを得なかった子たちに向けて『本気』を示す意味でも、やりたいと思った」
2012年、田久保は、チェコ・エキストラリーガのフロッシ・ブルノでプレーすることになった。チェコの野球リーグは1963年に発足したが、1980年代まで野球が根付くことはなかった。だが、1990年にエキストラリーガが創設され、8チームで年間35試合のリーグ戦が行われている。下部組織には2部リーグのチェスコモラフスカリーガも存在する。チェコでプレーする初めての日本人として、この新天地で新たな可能性を切り開くことができるのではないかと感じていた。
「そこに行く必要があるっていうよりは、とりあえず行ってみるかって感じだった。『見なきゃ始まらないな』と最終的に思ったしね。日本人が誰もプレーしたことない場所だったから、それが大きかったかな。野球におけるアナザーストーリーじゃないけど、何かを初めてひとつ持った時というか」
実際、チェコでの経験は大きかった。次のステップに悩んでいた田久保に、新しい道を示してくれた。自分にしか歩めない道を、歩むべきではないかと。
チェコでは、野球はまだまだマイナースポーツだ。それでも北米を中心に助っ人を集め、それなりのレベルを維持していた。国際大会になるとなかなか勝ち上がれないが、アメリカ・メジャーリーグ傘下のマイナーチームでプレーする選手も増え、その実力は確実に向上している。「行ってみたら、結構いい野球をやってるな」という印象だったという。プレーしながら、チームが運営する地元の子ども向けの野球レッスンにも積極的に参加した。野球発展途上の国では、こうして野球人口を地道に獲得していかなければならない。田久保はその中で、初の日本人選手として1シーズン戦い抜いた。野球の根付いていないこの国で、野球をもっと人気のあるスポーツに押し上げるにはどうしたらいいのか。今まで考えたこともなかった問題意識を植え付けられたシーズンでもあった。
オーストリアで選手兼監督、そしてナショナル・チームへ
チェコでの経験を皮切りに、田久保の新たな野球人生がスタートする。翌年、次のシーズンに向け、世界各地、特にヨーロッパを中心に、あらゆる球団に履歴書を送った。2014年、オーストリアの球団から選手兼任監督の要請が届く。豊富な海外経験を見てのオファーだった。田久保は、迷うことなく引き受ける。飛行機代と住居は、球団が負担してくれるが、給与面の条件はそれほど良くはない。指導者としての経験も、個人レッスンやたまにイベントの一環として行う野球教室以外では初めてだった。それでも、今までとは違う経験を自らに課すことで、新たなキャリアが構築できるという予感があった。
オーストリアン・ベースボールリーグ(ABL)のフェルトキヒ・カージナルスで、2014年シーズンを過ごす。オーストリアに野球連盟ができて30年余りがたつ。現在、加盟球団は約30球団。ABLはそのトップに当たり、6チームでシーズン20試合のリーグ戦を行う。チェコ同様、野球が根付いていないこの地で、選手のレベルはそれほど高くない。粘り強く、基本から伝えていかなければならない。これまで培ってきた経験を駆使し、異国の地で頭を悩ませた。多くの国を一人で渡り歩いてきたので、英語は身についていたが、監督としての指導となると、言葉の壁は厚く感じられる。それでも、自分の決めた道をひたすら邁進した。
選手兼任監督という立場は多忙を極める。時に選手としてプレーするが、監督業も同時進行でこなさなければならない。プレーに集中すれば監督としての意識は薄れ、采配に影響を及ぼしかねない。だが、チーム事情によってどうしても田久保自身がプレーする機会は必然的に多くなってしまう。それでもできることは精一杯やり続けた。次第にオーストリア国内で、田久保を評価する人は増えていく。
シーズンが進むと、ヨーロピアン・チャンピオンシップ・トーナメントに向け、U21代表の3塁コーチに任命され、ナショナルチームの一員となる。指導力が評価された結果だった。田久保の言う「野球におけるアナザーストーリー」をまた一つ、手にした瞬間でもあった。
オーストリアでの生活は、大変なこともいろいろあったという。文化の違いや認識のズレから、選手・スタッフ・関係者と言い合いになることもしばしばあった。選手の育成方法や試合の采配など、指導者として引けない部分もあったのは確かだ。
「言い合えるということが、何よりも大切だったと思ってる。言い合うことで、相手の意見を知ることにもなるし、こちらの意見を伝えることにもなる。黙っていると、間違って自分の意見を解釈されるからね。そうなると、また言い合いしなきゃいけないし。そんなシンプルな作業を積み重ねられたかな」
野球という言葉が日常に出てきにくいオーストリアで、毎日グラウンドに通い、子どもから大人までの指導に関わる営み。それは、この地に立たなければわかり得ない経験だった。
「また一つ、自分の中に新しい物差しが、この時できたのは確かだね」
田久保賢植(たくぼ・けんしょく)
1984年、千葉県出身。野球選手、指導者。<http://takubokenshoku.com/>
著者/宮寺匡広(みやでら・まさひろ)
1986年、東京都出身。小学校2年生で野球を始め、高校は強豪・日本大学第三高校に進学。2年間の浪人を経て慶応義塾大学文学部に入学し、野球部に所属する。卒業後、一般企業に就職するも1年半で退社、現役復帰。アメリカやカナダ、オーストラリアなど海外の独立リーグを中心に、現在も選手生活を送っている。