――ビデオジャーナリストと社会学者が紡ぐ、ネットの新境地
いかなる法案を通す際にも公明党の支持が必要となる現政権において、公明党の支持母体である創価学会の動向は注目を集めている。
[今月のゲスト]
玉野和志[首都大学東京都市教養学部教授]
――先に採決された安保関連法は、公明党がいなければ成し得なかった。だが、平和を最大の理念とする公明党の支持母体「創価学会」の反発はすさまじい。創価学会のカリスマ・池田大作名誉会長の体調不良が囁かれる中、創価学会員は公明党をどのように捉えているのだろうか? 安保法制をきっかけに表面化した、両者の歪を考えてみたい。
神保 今回は、公明党とその支持母体の創価学会がテーマです。衆参両院の議席数を見てみると、自民党は現在、参議院では過半数の議席を得ていないため、公明党の支持がなければ単独では法案を通せない状況にあります。また、いわゆる“60日ルール”で、参議院が可決をしなかった法案が衆議院に戻ってきた時、衆議院の3分の2の賛成で可決できるというもうひとつの経路についても、自民党単独では衆議院で3分の2の議席数を持っていません。
つまり、今の政府はどんな法案を通すためにも必ず公明党の支持が必要になります。その意味で、安保法制成立の真の立役者は公明党だったと言っても過言ではありません。
ただ、公明党の支持母体の創価学会は、もともと平和を重んじる宗教団体なので、集団的自衛権の行使を、両手を広げて歓迎しているとは思えません。
にもかかわらず、なぜ公明党が安保法制の成立にここまで前のめりになれたのかは、ぜひ知りたいところです。
宮台 かつての公明党は、共産党と並んで低所得者が集票母体で、また「平和と生活の党」ということで、中道ないしは中道左派のイメージがありました。しかし自自公路線以降は違います。神保さんと僕が出会うきっかけとなった通信傍受法(1999年第145回通常国会)が典型的ですが、公明党がいなければ通らなかったはずの右寄り法案が多くあります。右寄り法案でも自民党に寄り添うことが公明党の生き残り戦略だとすれば、アイデンティティはどうなるのか。もはやそれは従来の公明党でも、まして創価学会でもない……。という話になるのかと思いきや、選挙動員などではまだ一体性が残っています。どういうことなのか。今回答えを得ようしている疑問はそこです。
神保 ゲストをご紹介します。首都大学東京都市教養学部教授で、『創価学会の研究』(講談社現代新書)を書かれた玉野和志さんです。初めに、玉野先生が創価学会という教団を研究対象にされるようになったきっかけは、なんだったのでしょうか。
玉野 私はもともと地域のコミュニティ調査を行い、地域の歴史や社会的な構成などを調べる仕事をしていました。ある地域の最初の調査で、その地域に学会員が多く住んでいることがわかりました。そこでたまたま仕上げの集票調査の対象になった、聖教新聞の販売員を訪ね、その方を通じて幹部に連絡してもらいました。その後は依頼書を書き、スムーズに許可が下りて、その町とのかかわりで学会員がどう暮らしてきたかなど、調べさせていただきました。
神保 日本で地域コミュニティを研究する上で、創価学会は調査対象としては欠くことができないほどの存在感があるということですか。
玉野 特に会員数の多い都市部においてそうですね。最初の調査では「学会員ですか」などと尋ねなかったのですが、支持政党と、宗教団体や政治家の後援会などに入っているかという“集団参加”の項目で聞いたときに、これに直結する人が何人かいました。公明党支持で、宗教団体に入っているという人は10%を超えていた。これはかなりの数字です。
地域社会において一定の規模を持ちながら、創価学会員の方々は、さまざまな迫害を受けていたこともあり、例えば町会の役員などはやらせてもらえなかった。ですから、私はこれを「もうひとつの地域」と呼びました。ただ、調査を終える頃には初めて公明党が与党になり、その前後で状況が変わってきた。古くからの会員のおばあさんが、「娘が町会の役員に誘われた」と、うれしそうに語っていたことを思い出します。
神保 やはり与党になったのが大きかったのですね。自民党はもともと、立正佼成会と近い関係にあったので、そことライバル関係にある創価学会とは距離を置いていて、以前は「池田大作を証人喚問せよ」などと言っていた時代もありました。そのトラウマが、公明党が政権入りにこだわる理由になっているとも言われていますが、与党に入ったことで公明党の雰囲気がガラッと変わりましたね。
玉野 そうですね。その直前にいわゆる宗門(日蓮正宗)との分離(1991年、日蓮正宗が創価学会及びSGIを破門)がありました。これは本当か嘘かはわかりませんが、創価学会の意見としては「宗門が、ほかの宗派との交流を縛っていた」という解釈をしていた。その宗門と切れたものだから、地域の行事として参加するのは問題がない、というような解釈に変わるのです。それで、公明党の議員さんも実際に神輿を担いだり、そういうことがパフォーマンスとして行われるようにもなった。それが地域へ入りやすくなったことの背景として大きいですね。
宮台 少し補足すると、立正佼成会は農村の家督を継ぐ長男がメインの信者でした。対して、戦後の農村の過剰人口を背景に、都市部に出てきた労働者をベースに広がったのが創価学会です。また、91年に冷戦体制が終わり、93年に自民党が野へ下った。これは政治だけの問題だけではなくて、実は92年を境にして、自民党の絶対得票率が一回も途切れることなく漸減してきています。
挙げ句、21世紀に入ると小泉自民党が典型であるように、農村政党として立ち行かなくなった自民党が、ポピュリズムに訴えることで浮動票を獲得しようという都市政党の方向へ変わっていく。ですから、公明党がポジションを上げる契機というのは、やはり90年代にあったと思います。小泉・竹中路線は新自由主義でしたが、それによって創価学会を支える「都市流民層」が増えるという意味で、自民党と公明党はますます親和的になりました。
沖縄は90年代が終わって21世紀に入る頃から、共同体が急速にバラけた結果、もともと激しかった格差や貧困が、以前よりも問題視されるようになります。昔ながらの相互扶助がだんだん消えゆく中、離島を含めて、公明党あるいは創価学会の勢力がどんどん広がっていくのが目に見えてわかります。やはり共同体が空洞化すると創価学会が入っていくのです。