――サブカルを中心に社会問題までを幅広く分析するライター・稲田豊史が、映画、小説、マンガ、アニメなどフィクションをテキストに、超絶難解な乙女心を分析。
『レザボア・ドッグス (DVD)』
今回は、強盗を企てた男たちが、身内の中にいるであろう犯人探しをする映画『レザボア・ドックス』を始め、クエンティン・タランティーノの作品をピックアップ! ※本文中にはネタバレがあります。
実家帰省ラッシュのお盆は、若い夫婦にとって「嫁ハラスメント」「婿ハラスメント」の季節だ。夫の母親からの「猫飼うより子ども作るほうが先でしょ。順番が違うんじゃない?」攻撃、妻の父親からの「僕がキミくらいの歳の頃、同期で部長になってない奴は窓際扱いだったな」攻撃など、毎年、深刻な被害報告が後を絶たない。
そんな中、地味に体力を削られるのが、実母からの「オチのない長話」攻撃である。桃が安かったので買ったら傷んでいた。町内会の草取りに来ない共働き夫婦に腹が立つ。妹の娘が今年大学受験だ。こないだ『あさイチ』(NHK)に出ていた市原悦子さんが素敵だった……ベラベラベラ。こんなのを帰省中、朝昼晩の毎食後にたっぷり30分は聞かされ、500回くらい相槌を打たされる。
……という話を友人にしたところ、母親よりも最近は妻のほうがキツい、と愚痴られた。職場の女上司がムカつく。結婚式の二次会に着ていく服がない。ママ友に「3歳にしては言葉遅れてるんじゃない?」と言われた。又吉直樹の『火花』(文藝春秋)が読みたいけど図書館で予約500人待ちだ。マツコが絶賛してた「ずんだシェイク」が飲みたい……ベラベラベラベラ。あんまり話が長いのでスマホを触りながら生返事を繰り返していたところ、軽くキレられたそうな。
なぜ男は、「女の話は長くてオチがない」と感じるのか。それは、「男はゴールに向かってしゃべるが、女はしゃべるためにしゃべる」からだ。男性諸氏ならば覚えがあろう。女からの悩み相談に男がどんなに頭をひねって解決法(ゴール)を提案しても、女は納得しないということを。女の目的は悩みの解決ではなく、境遇への共感なのだ。
「オチのない長話」。それで浮かぶのが、クエンティン・タランティーノ監督・脚本作だ。タランティーノは1992年に『レザボア・ドッグス』で注目され、94年の『パルプ・フィクション』でカンヌ国際映画祭のパルム・ドールを受賞。一躍90年代映画界の寵児となった。
『レザボア・ドッグス』冒頭では、ダイナーに集まったチンピラたちが、マドンナの「ライク・ア・ヴァージン」の歌詞分析、東洋人の名前の話、ウェイトレスにチップを払うかどうか問題などを脈絡なく話す。どれにもたいしたオチはついていない。というか、オチがささやかなわりに話が長い。
『パルプ・フィクション』では、車中で2人のギャングが、やれアムステルダムではハッパが吸いやすいだの、フランスはメートル法の国だからマクドナルドでは「クォーターパウンダー」を「チーズ・ロワイヤル」と呼ぶだのと延々話すが、だからどうした以上の感想はない。
『デス・プルーフ in グラインドハウス』(07)に至っては、2グループ・7人の女子たちによるおしゃべりが映画の7割を占めており(筆者の体感)、これでもかと言わんばかりに内容はスカスカだ。誰がハッパを持っているのか、男とヤった、ヤらないの下ネタトーク、湖の別荘がどうだこうだ。後半、途切れなくつながった女子4人の車中おしゃべりからランチおしゃべりまでのくだりは、合計タイムがなんと12分半もある。
タランティーノが女脳なのかどうかはさて置き、なぜ話が長くなるのか。それは、状況描写の説明が枝葉末節すぎ、脱線トピックの挿入が多すぎだからだ。しかも、女性(とタランティーノ)は個人的な所感までフリースタイルで差し込んでくるので、論旨展開に余計な時間を食う。結論を先に言わず、もったいつけたように話すので、なんの話なのか最後までわからない。そして大方はたいした話ではない。
実例を挙げよう。
男性なら「友だちの女の子が彼氏と別れた」と簡潔に説明するところ、女性、もしくはタランティーノ脚本ならこんな具合である(内容スカスカなので、読み飛ばしていただいて結構です)。
「ユウコ知ってたっけ? 前、私とバイトで一緒だった子。私と同じ22歳で、あ、でも四大卒じゃなくて、短大卒っぽい感じの子。本当は知らないけど。ギャルっぽい服ばっか着てて、いつもナマ足出してて、まつエクもばっちりで。ホラ、こないだ会わせたサチコにアイメイクだけ似てると思うんだけど。その子が、去年のクリスマスから付き合い始めた彼と……ええと、ハロウィンの時には渋谷の路上でもう告られてたらしいんだけど、2カ月引っ張ってね。引っ張るほどかわいくないっつーのw で、その彼とさあ。あ、彼って、前に二人で行った神泉のスペインバルのホールスタッフやってる人ね。26歳でEXILEのタカヒロ系の。いたじゃん? サングリア運んできた。サングリアおいしかったね。また飲もうか。その彼が先週末に泊まりに来たんだって。ユウコの高井戸のマンションに。1ルームで9万らしいんだけどね。高くね? そこに金曜の終電後、突然ピンポン鳴らしたらしいの。携帯で連絡とか入れないで。ていうか普通、突然来なくない?(まだまだ続く……)」
女(とタランティーノ映画の登場人物)は、しゃべるためにしゃべる。「ライク・ア・ヴァージン」の話題も「チーズ・ロワイヤル」の話題も、ストーリー展開には一切寄与しないし、伏線でもない。むしろその間、ストーリーは停滞している。小話やおしゃべりに与えられた役割は、「物語を展開させる」という課題の解決ではなく、それ自体に没頭させることだからだ。ソシャゲや登山やセックスと同じである。
ではなぜ、タランティーノ作品の「オチのない長話」は面白いのに、母親や妻の「オチのない長話」には耐えられないのだろう? その答えのヒントは『レザボア・ドッグス』の開始1時間7分あたりから登場する、「“草”の売人の笑い話」にある。
この小話、一言で言ってしまうと「マリファナの売人がトイレに入ったら警察官に鉢合わせしてドキドキしたけど、結局バレずにすんだ」という10秒で話し終わるようなもので、特にオチもない。しかし映画ではなんと5分半も引っ張り、しかも激烈に面白い。そのポイントは、劇中に登場する小話指南役の男が言っている。「マーロン・ブランド並みの名演技をしろ」だ。小話は“報告”されるだけではぜんぜん面白くない。登場人物の役になりきって“演じる”ことで最高に面白くなるのである。
というわけで世の女性陣におかれては、観客たる男性を「オチのない長話」に没頭させるべく、日々役づくりと演技に鍛錬していただきたく。いっぽうの男性陣は最高の“観客役”を演じるべく、映画館同様にスマホの電源を切り、話がどんなにつまらなくても満面の笑みで拍手すべし。
くだらないとお思いだろうか。
しかし古来より、夫婦や親子円満の秘訣は、それぞれが“役を演じる”ことだというのが定説だ。それで全部が丸く収まる。台本通りの人生劇場には予定調和の大団円が待っている。いやぁ、映画って本当にいいもんですね!(水野晴郎ふう)
稲田豊史(いなだ・とよし)
編集者/ライター。キネマ旬報社でDVD業界誌編集長、書籍編集者を経て2013年にフリーランス。『セーラームーン世代の社会論』(単著)、『ヤンキー マンガガイドブック』(企画・編集)、『ヤンキー経済 消費の主役・新保守層の正体』(構成/原田曜平・著)、評論誌『PLANETS』『あまちゃんメモリーズ』(共同編集)。その他の編集担当書籍は、『団地 団 ~ベランダから見渡す映画論~』(大山顕、佐藤大、速水健朗・著)、『成熟という檻「魔法少女まどか☆マギカ」論』(山川賢一・ 著)、『全方位型お笑いマガジン「コメ旬」』など。「サイゾー」「アニメビジエンス」などで執筆中。映画、藤子・F・不二雄、90年代文化、女子論が得意。http://inadatoyoshi.com