『エッセイの書き方』(岩波書店)
――売れた女優がエッセイを出版するという、いつの間にか出来上がった出版文化。そして時代とともに、その内容は変化している。赤裸々な告白本から、ライフスタイルをつづるもの、自己啓発的なものまで、女優エッセイというジャンルから、世の中が“女優”という存在に求める役割の変化を考察する。
昭和から現在まで、数多く出版されてきた女優たちの手によるエッセイ。彼女たちはその中で、何を語ってきたのか。その変遷を追うと、語り手である女優たちだけでなく、その読者である世の女性たちの“気分”も捉えられるのではないか。そう思って数々の本を読んでみると、女優のエッセイにはいくつかの柱があり、それぞれが影響しあったり、そのときどきの流行や思想とも結びついたりしながら、枝分かれしているということがわかってくる――。
“巴里と女優”という赤裸々語りの系譜
まず語るべきひとつの大きな流れには、“巴里”と女優のエッセイがある。その流れの始祖は1953年、高峰秀子の『巴里ひとりある記』に始まる。高峰は1924年生まれ。映画『二十四の瞳』や『浮雲』に出演し、成瀬巳喜男や小津安二郎といった名監督に愛された銀幕女優だ。彼女は1951年、終戦から6年目に27歳で7カ月間をパリやニューヨークで過ごす。当時はパリに行くのに、羽田、オキナワ、ホンコン、バンコク、カルカッタ、カラチ、ベルーット(ベイルート)、ミニイ、ブラッセル、ブールジェを経ないとたどり着けないというのだから、現在とは渡航の決意の大きさも違うだろう。
そんなパリにひとりで乗り込んだ高峰だが、文章からは一見のんきな空気が感じられる。髪を切って金太郎のようになっても、「ここでは平気。美人もいれば、とんちんかんのもいる」と旅先の自由を謳歌。しかしこの本には、高峰がなぜパリに行ったかがなかなか出てこない。巻末の徳川夢声との対談でやっと、「(女優を)いつかはやめるものだし、やめないまでも、所詮はあわれっぽくなっちゃうんだ、女なんてものは。長いあいだ女優してたけどなんにもないってことが、やっぱりつまんなかったのよ。センチだけどね、旅行でもなんでもいい、人間一生の中で思い出みたいなものがひとつあればいい」と気持ちを吐露しているのだ。
しかしこれは本音ではない。本当の理由は、パリ行きから実に25年後、76年に刊行された『わたしの渡世日記』(朝日新聞社)に書かれている。「日毎に女らしく成長する私を気味悪く」思う母親から離れれば、「万が一にも二人の心が母娘らしく近寄ることができ」るのではないか、というのが当時の渡航理由の真相だった。